『ボーン・スプレマシー』
突然現れた傑作がシリーズ化されるとなると、前作を気に入った観客としては不安になるものです。キャラクターの余分な見せ場や前作へのくすぐりが過剰に入っているのではないか、増えた予算を派手なシーンばかりに廻してストーリーの練り込みを疎かにしてはいないかと、かつて幾つものシリーズがそうやって駄目になっていった事をつい想起してしまいます。
殊に前作『ボーン・アイデンティティ』であれ程の手腕を見せてくれたD.リーマンから(またしても経歴から仕上がりの予測がつかない)P.グリーングラスへの監督交代、原作小説自体も「シリーズ化の弊害で駄目になってしまった典型」となれば、劇場へと向かう足もどうしても鈍りがち。
しかし有難い事に、そうした懸念は冒頭の10数分で完全に払拭されます。手際良く、かつ必要最小限にけれん実を抑えた演出で描き出された、現在のジェイソン・ボーンと新たな事件の併置によって、映画は再び、陰惨な過去に追われ過去との対峙を余儀なくされる男の物語へと、観客をすんなりと送り込んでくれます。なによりもまずその事が嬉しい。
トレッドストーン計画を葬った事で過去と決別した筈のジェイソンは、またしてもかつて自身が手がけた暗殺から派生する一連の事件に巻き込まれ、その過程で最愛の伴侶を失う事になります。前作でようやく勝ち取った筈の幸福さえ、再び過去に飲み込まれて行くこの仕打ちはかなり重い。たった2年で撮ったにしてはかなりの分量になる写真を焼き捨てるジェイソンの姿から、自身の新しい経歴を作り上げようとし、それが幻影であった事に気付かされた男の悲痛が明瞭に見て取れます。
「過去との決別」という只一点を追求していた前作と同様、本作もまた、過去に追いつかれたジェイソンが過去と向き合い、決着を付ける顛末にのみ的を絞ります。異国の地に赴き、四面楚歌の中で着々と情報を積み重ね、遂に真相へと至るジェイソンの姿には、悲痛さと同時に不思議なカタルシスも感じます。そうしたジェイソンの道程に、(これも前作と同様)必要最小限に無理無く配置された、しかし鮮烈なアクション・追跡シーンの描き方も見事。グリーングラス監督は、見事に前作のD.リーマン監督の構築したトーンと世界観を受け継ぎ、独自のリズム感でそれを補強する事に成功した様に思います。
そしてシリーズの続編としての『ボーン・スプレマシー』が素晴らしい点は、その様にして継承された世界観とキャラクター造形に相応しい結末を用意し、安易な大団円に流れなかった点でしょう。かつて理不尽な死と理不尽な別離を人々に与えていたジェイソン・ボーンであれば、自らがそうした立場に立たされたからと言って安直な復讐劇を始める資格はありません。映画はジェイソンが動き出す動機として充分に納得の行く答を用意し、結末に至って遂にそれを正面から提示します。
恋人を奪った男に対する復讐かと思わせたジェイソンのモスクワ入りは、標的を下した後もその行程は止まりません。遂に辿り着いた目的地で、目指す相手に向かって発せられるジェイソンの台詞に、観客は一様に胸を衝かれるのではないでしょうか。
「愛する者を突然奪われる様な事があったら、・・・俺だったらその理由が知りたくなる」
他ならぬジェイソン・ボーン - "知る"事の痛みを誰よりも理解し、それを受け入れる事でかろうじて自らを律してきた男の口から出た言葉だからこその重みです。彼が事件の真相を手にし組織の追求を逃れた後も、歩みを止めず火中へと分け入り続けた理由としては、これ以上に納得の行くものはあり得ません。
復讐等と言う身勝手な(また大方の観客が期待する様な安直な)ものではなく、伝えるべき事を、それを知る権利のある者に伝える義務を果たす為。それがどれほど自身の良心を苛む事であろうと、またそれが如何なる赦免を意味しないにも拘らず、彼は躊躇わず地球をほとんど3/4周して目的を遂げ、誰からの感謝も期待しないまま再び我々の前から姿を消して行きます。これほど古典的な、しかし胸を打つヒーロー像もないのではないでしょうか。
もはやラドラムの原作から遠く離れたこの続編で、映画はジェイソン・ボーンという独自の人物を、独自の物語世界に定着させる事に成功しました。これ程の完成度を以て彼の道程を「完結」させてしまった以上、既に予定されていると言う第3作目に、果たして語るべき事が残っているものかどうか。本作公開時に感じた懸念は、どうやらもう一年続きそうです。
The comments to this entry are closed.

Comments