『宇宙戦争』
平凡な日常を送る人々を異界に送り込む道具立て、という意味では、鮫も恐竜も大型トラックも、更には内乱やホロコーストや人種差別の様なものまで、スピルバーグ監督の前には等しく同じものなのかもしれません。そうした意味で、今回の『宇宙戦争』に登場する異星人達は、意外にも彼の過去の作品に登場した、もっと友好的な同族達と、奇妙に似通った印象を与えてくれます。
それは初めて主人公と観客の前に姿を現したウォーマシンの、どこまでも高く立ち上って行く威容や、彼方の丘の上、薄暮の中を立ちはだかるウォーマシンの、恐ろしくも奇妙に美しい一枚絵から来る印象なのでしょうか。原作者ウェルズに敬意を表するかの様に原作小説の挿絵さながらの映像を随所に配しつつ、スピルバーグはまたしても「見慣れた日常の風景と地続きの異界」を創出してくれました。
それは近年の彼の作風の変化をリアルタイムで追いかけて来た、デビュー以来の彼のファンである私にとっては、驚かされつつも非常に嬉しい思いを味あわせてくれるものでした。近年の円熟し、ある意味先鋭化した演出家の影には、未だ"センス・オブ・ワンダー"を具現する事にかけては並ぶ物の無い夢想家が隠れていて、必要とあればいつでも(恐ろしくも魅力的な)「異界」に我々を連れ出してくれる。その事を改めて知らされるのは、映画の方向性に関係無く実に嬉しい事です。
極限状況下でのある家族の逃避行という主題を追いつつ、ともすれば彼らの接触する"難民達"や襲い来る宇宙人達の描写に過剰な程入れ込み、観客の共感を図らずも呼び起こしてしまう「暴走」ぶりも、1980年代後半から1990年代初頭までのスピルバーグを思い起こさせます。ウォーマシンを降りた宇宙人達が初めて観客の前に姿を現す時、エリオットの部屋に初めて招待されたE.T.と全く同じリアクションを取って見せるのは、「どのような物事であろうとも、見る者の立ち位置が変われば恐ろしくも愛らしくもなる」という、処女作以来の彼の方法論を再確認するものの様にも思われました。
だからと言って、『宇宙戦争』が単なるスピルバーグの過去回帰に終わるという訳では勿論ありません。近年のスピルバーグ、付いて行くのにも苦労する程のスピードと情報量で物語に分け入り、それを臨場感溢れる"体験"として観客を巻き込んで行く演出力も、存分に披露してくれます。
それは特に、主人公レイが日常から放り出され家を追われるに至る導入部に、顕著に見て取る事ができます。ダウンタウンの一角に落雷が落ち、そこから出現したウォーマシンが周囲の全てを破壊し尽くすまでの一連の描写は、徹底したリアリティと臨場感の追求によって恐怖と切迫感を最大限に煽り立てる、『シンドラーのリスト』以来お馴染みとなったスピルバーグ/カミンスキー印の集大成。
まるで「アメリカ本土が"空襲"されたら何が起こるか」をシミュレーションしているかの様なこの場面には、(レイティングへの遠慮はあるとは言え)微塵の容赦もありません。かつて「宇宙戦争」を手がけたもう一人のウェルズに敬意を表するかの様に、ここでのスピルバーグは、虚構の地球侵略に説得力を与え、観客を恐怖とパニックの只中に投げ込む為に、これまで身につけて来たテクニックの全てを総動員してかかります。
異界に接した人々の恐怖と憧憬、人が普通に持つ相反する反応を、スピルバーグは自らの多彩なフィルモグラフィーをサンプリングする様にして抽出し併置して見せてくれました。そして併置されたそれらは不思議な事に、ごく自然に混じり合い、そのキャリアを通じてスピルバーグが常に拘って来た対象、「人」の多彩な側面を浮き彫りにして行きます。
時に愚昧で、往々にして余りにも身勝手で、殺されるのを待つまでもなく自滅してしまう程に脆弱で、だからこそ時に垣間見える純粋さ、強さ、美しさが強烈な印象を残す、そういう「人々」= スピルバーグの映画群を常に彩って来た有名無名の彼らに、映画は中盤を過ぎてはっきりと力点を置き始めます。
いつのまにかウォーマシンは恐怖そのものではなく「恐怖を与えられた人々」にキューを出す為の存在へと後退し、画面の中心に置かれるのは常に主人公レイと彼らを取り巻く難民達。そして驚くべき事に、観客である私達もいつのまにか、侵略者との戦いの行方などよりもずっと、力無き彼らの行く末を気にかけているのです。
だから有名すぎる程に有名な原作通りの結末を映画が迎えても、そこには失望も肩すかしな感覚もカタルシスへの渇望も、意外な程に感じられません。かつて一人の来訪者を帰郷させるだけで全世界を泣かせた時に使われたのと同種のマジックが、一人の女の子が母親に再会する「ただそれだけ」を、異星人撃退に倍する満足を観客に与え、地球規模の災厄に相応しい結末と認めさせてしまいます。
善良な宇宙人から凶悪な宇宙人へと、道具立てを変えても本質はいつものスピルバーグ映画。異界をくぐり抜けた人々は、その先で自分自身と対峙し、何かを乗り越えたり昇華したりする事になります。そうした人々への信頼を彼が描き続ける限り、私達もまた、彼への信頼を失わずに済みそうです。
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