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July 25, 2005

『バットマン・ビギンズ』

T.バートンの創造したバットマン像がムルナウの『吸血鬼ノスフェラトウ』から多くを得ていたとすれば、C.ノーラン監督版のルーツはF.ラング監督の『M』にあると言っても差し支えないでしょう。同じドイツ表現主義に括られながらムルナウとラングに大きな隔たりがあった様に、バートンとノーランのバットマン像にもまた、明確な差異が見て取れます。

バートン監督があくまで「ある程度硬直した価値観の中に置かれた異端者」としてバットマンや彼と競う悪役達を描いたのに対して、ノーラン監督は両者の価値観をひっくり返してみせます。今回のブルース・ウェインは、その扮装にまで理論武装を及ぼした良識人。精神探求の果てに誰も及ばぬ程のバランス感覚を身につけて帰還する先は、価値観を云々する事すら不毛に思える程に疲弊し切った、腐敗の都ゴッサム・シティという次第。

モラルの及ばぬ舞台でモラルを超えたヒーローが闘うという構造に変化は無いものの、ノーラン版のバットマンは明らかに「失われたモラル」の側に位置する存在なのです。それは丁度、モラルを超えた側にこそ安住の地を見つけてしまったバートン版とは、真逆の存在とも言えるでしょう。

バートン版アウトサイダーの哀歌に親しんだ身としては、些か悲嘆が過ぎるとはいえ堂々と「ダークナイト」を演じ切る新生バットマンには、やはり少々の違和感が拭いきれません。とはいえそれはオールドファンの繰り言というものでしょう。堕落を極めた舞台の中で、正邪を問わずその全てからの超越者としての"恐怖の象徴"バットマンは、明らかにバートン版を超えた力強さと美しさを醸し出していました。

物語の方もシリーズの語り直しに相応しい正攻法の「バットマン誕生編」。偏屈な富豪ブルース・ウェインが、如何にしてダークナイトの衣を纏うに至かを、その心理の変遷を蔑ろにせず、丁寧に描き出して行きます。

この辺りは流石『メメント』『フォロウィング』を送り出したノーラン監督の面目躍如。この人はサスペンスの中心に登場人物の心理を据え、心理の移動がそのままサスペンスの原動力になっていく物語作法が得意な様で、今回の『バットマン・ビギンズ』もその作法に忠実に従います。ウェインがバットマンに転身するに至る、様々な葛藤をひとつずつプラクティカルに片付けて行く様子は、それこそ『メメント』を時間順に追っているような周到さで描かれます。

そして、この部分が本編のクライマックスを超える程に、観客に"楽しさ"を提供してくれるのが面白い。

彼の唯一の理解者アルフレッド、ウェイン社応用化学部の主任フォックスにウェインを加えた3人が「バットマンという事業」を着々と軌道に乗せて行く様子は、まるで3人の子供が秘密基地遊びに興じるかの様。マイケル・ケインにモーガン・フリーマンという芸達者を迎えてのこれら一連のシークェンスは、翼を広げ夜空を滑空するバットマンの勇姿に負けない程にわくわくさせてくれました。

秀でているとはいえ普通の人間がヒーローを"演じる"バットマンは、見方を変えれば大掛かりなゴッコ遊び以外の何者でもなく、それを認めた上で堂々とゴッコ遊びに興じる事で主人公の正気と理性を確保する。ノーラン監督が新生バットマンの存在に与えた説得力は、そうした姿勢から導き出されたものの様です。

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