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September 06, 2005

『ヴェラ・ドレイク』

現代においても西欧社会、特にキリスト教の強い影響下にある社会では「堕胎」という行為そのものの是非は深刻かつ難しい論議を呼ぶものの様ですが、マイク・リー監督の本作においては力点を置かれているのはその部分ではありません。映画の中では、時と場合においてはそれは許容されるべきものと明言されています。

その代わりにリー監督が強調するのは、その"時と場合"、加えて経済力の如何によって、合法にも非合法にもなってしまう解釈の欺瞞と、非合法を選ばざるを得なかった者が負わされる謂われなき断罪の姿でした。良心的なイギリス映画が度々取り上げて来た、"貧困層の人々が貧困故に陥る悲劇"の延長上にヴェラ・ドレイクの物語は存在します。

ぎりぎりの所で生活を維持して行かねばならない経済圏にある人々にとっては、その一挙手一投足はすべて「破滅を回避する為の行為」です。一手間違えると途端に彼等の生活は経済的に破綻し、破綻は死に直結する。そうした状況下で、彼等は常に将来への不安と緊張に晒され乍ら、日々を営んで行く事になります。

ヴェラの持つ親切心と協調性は、その様な社会の中で"生きて行く上で必須のもの"として撚り上げられていったものなのでしょう。ヴェラに限らずその界隈の人々は、手をこまねいていればいとも簡単に彼等を飲み込んでしまう破綻への恐怖を、一丸となって必死に押しとどめようとしている様にも見えます。

だからこそ、そのような"悲劇を押しとどめる手段"のひとつとしてのヴェラの堕胎行為が断罪されるに至っても、それは常に疑問符付きで提示される事になります。「困っている人を助ける為」というヴェラの言葉に嘘は無く、"困っている人"の懐に余裕がある時に限り安全かつ合法な(しかしその内実は全く変わりのない)手段を取れる事が明示され、ヴェラが逮捕された後も周囲の人々は、彼女の"大それた行為"に驚き戸惑いはしても彼女そのものの善性を露程も疑わない。ヴェラの行為は「無法」ではあっても、決してそれは「悪」ではない、という一線を、映画は最後まで超える事はありません。

そのようにして映画は、ヴェラをあくまで「間違えた一手を選んでしまった者」の立場に止めつつ、同時に観客である私達に、劇中決して登場しない問題の根源、本当の「悪」の存在を示唆しようとしている様にも思えました。

堕胎の原因たる望まぬ妊娠は何故起こるのか。望まぬ乍らの出産という選択が何故封じられているのか。封じた末に堕胎に追い込まれた者、手を貸した者を安易に断罪できてしまうのは何故なのか。我々は"何故"それらを容認し見過ごし、末端の手を汚した者だけを非難して佳しとしてしまえるのか。

それら全ての答を「均衡を欠いた社会の所為」と言葉にする事は正当かつ簡単ですが、同時にそれはあまりに安直な事でもあります。それを指し示す事は、仮令正しくとも何の対策も救済も得る事は無く、それ自体ひとつの「安易な断罪」に過ぎません。

マイク・リー監督は安直に原因を指摘する代わりに、ドレイク一家の日々の生活を活写する事で社会そのものを浮き彫りにします。苦難の多い日々の中にささやかな幸福を求める人々の様々な苦闘の中に、ヴェラの堕胎行為とそれを求める女性達の姿は完全に溶け込みひとつの日常を作り出していました。そうした日常から「不法な堕胎行為」ひとつだけを抜き出し排除しようとした時、どれほど彼等のいる世界が軋み揺らいでしまうものか、その実体を描き出す事でリー監督は彼なりの答を提示した様に思えました。

映画のラストカット、それまでは常に幸福の象徴の様に扱われていたドレイク家の小さなテーブルとそこに集う人々が、いまや車輪の中心たるヴェラを欠いた状態で陰鬱にうなだれている一枚絵には胸を衝かれます。糾弾されたひとつの"罪"は、ひとつの幸福を破壊するだけの価値があるものなのか。監督からの最後の問いには、賢しらな一般論を飲み込ませるだけの力がありました。

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Comments

大変ご無沙汰しております。スーダラです。
こちらも久し振りに覗かせていただいたら、ちょうど今週見たばかりの「ヴェラ・ドレイク」を見つけたので、じっくり読ませて頂きました。
同じ映画を見たのに、こうも受け取り方が違うものなのかと、それでいて「なるほどなぁ。」と思わないではいられない・・・というネット上に映画の感想をアップし、他の方の感想を読むことの最大の喜びを久し振りに感じる事が出来ました。
僕は、あのラストシーンすら、「希望」であると見ました。
行き届いた施設で安全な堕胎を済ませた娘の異変に全く気がつかない金持ち一家、厚い壁と高い塀の中のくだらない幸福をお金で買い続けるあの家に比べて、母の帰りを待ちつづけるあの一家が不幸せだとはどうしても思えませんでした。
そう言えばラストシーンも待ってるようには見えても、奪われ破壊されたようには僕は見えなかったんですよ。
でも先にolddogさんのを読んでいたら、そうは思わなかったし、書けなかったかもしれません。やっぱり自分で書くことは大事ですよね。
また来まーす。

Posted by: スーダラ | September 18, 2005 04:17 PM

スーダラさん、こんにちは。olddogこと杉山です。
こちらこそご無沙汰しております。

先ほど、スーダラさんの感想も拝見させていただきました。確かに言われる通り、混乱や葛藤はあったにせよ、彼等は揃って"ヴェラの帰りを待っている"。それこそが最も大事な事なのかもしれませんね。

スーダラさんの言われる「不器用な人々」が、何かを契機に自身の胸の裡をさらけ出さずにはいられなくなる。その結果、少々の気恥ずかしさと直裁な怒りを代償に、緊密な人間関係を手に入れる。マイク・リー監督作品の醍醐味ですが、それが今回は「信頼」という最上の報酬として得る事ができた、という所でしょうか。

私が彼等の置かれた「状況」に拘る一方、スーダラさんは彼等自身に切り込んで分析してくれた訳で、お陰で私も映画に対する理解が深まりました。今後も私の小理屈は気にせず、色々と感想を書いていただけると(ついでにその折にはトップページの日付も更新していただけると^^;)大変嬉しく思います。

Posted by: olddog | September 18, 2005 10:45 PM

杉山さん、スーダラさん、こんにちは。私も「ヴェラ・ドレイク」を見ました。マイク・リーにはいつも感嘆させられますが、今回もしかり。杉山さんの感想を読み実は「ちょっと私とは違う」と思っていたフォローをスーダラさんにしていただいた感じです(笑)。ラストシーンを含め、私があの映画を見ている間感じていたのは「愛」と「希望」でした。人生の大変な困難に遭遇し岐路に立った時こそ、家族の愛が試される。そういった時、教養やお金は何の役にもたたず、相手を許し、信じ、そうして愛し続けていくことこそが幸福への鍵になる、そういったマイク・リーの心の叫びが聞こえてくるような気がいたしました。映画の感想も捉え方によって千差万別ですね。杉山さんの感想も頷ける部分もあり、それなりに納得。次は是非「理想の女」を見て感想を聞きたいな(笑)。

Posted by: TAKUMI | September 19, 2005 08:22 PM

TAKUMIさん、こんにちは。杉山です。

あの時代のあの階級層においては愛と希望の力を借りても尚、彼等には相当な辛苦が予想されます。リー監督としては残ったドレイク家の人々をも信じたいという願いを込めた結末なのでしょうが、然り乍ら現実の厳しさに対してもまた真摯にならざるを得ない。・・・という所で、「ヴェラがいなくなった事でまるで灯りの消えた様な」「しかし依然として家族は集まり寄り添っている」あの最後のショットになったものと思われます。

それなりの内容の込められた映画にはやはり安易な悲劇も安易なハッピーエンドも相応しくないのでしょう。ラストカットから見つけ出した物が何であったとしても、それはドレイク一家がそこまでに至った経緯を反映したものに他なりません。そこからどのような印象を選び取るかによって"選び取った者"自身のパーソナリティが露呈してしまうのが、こうした映画感想の面白くも怖い所ですね。

『理想の女』も楽しみにしている一本。いつになるかは判りませんが、鑑賞後には忘れずに何か書かせていただこうと思います。

Posted by: olddog | September 19, 2005 09:51 PM

杉山さん、TAKUMIさん、どうも。久し振りにネット上で映画の話をしているスーダラです。
TAKUMIさんも書かれているのですが、今日も何度か、この映画のことを思い出して「確かに杉山さんの言う通りだなぁ。」と感じていました。でも僕の感想は僕の感想としてあるわけで。
僕はこの映画のラストシーンを「希望」と感じ、それを「良質のイギリス映画だけが見せてくれる究極の希望」と書きました。「良質のイギリス映画」の担い手として、ケン・ローチ、ウィンターボトムあたりを思い浮かべながら。
「究極の希望」が成立する条件は嘘のない現実、それも無慈悲に人を飲み込んでしまうような厳しい現実であるわけで、だから映画が描いているのは「究極の希望」と「究極の現実」だということになります。
そのあたりが僕、TAKUMIさん、杉山さんの感じ方の違いになっているのかなぁと改めて思いました。
上記の「担い手」たちは「希望」と「現実」のどちらかに過度に傾くことなく、両方を等しく究極というレベルまで引き上げることに成功しているからこそ、僕たちの心を揺さぶるのでしょう。
そう言えばリーの「人生は、時々晴れ」のラストはなんとなく登場人物たちがささやかな幸福を手に入れるものでしたが、それでも僕は彼等の行く末が心配で心配でたまりませんでした。これは希望と同じ大きさで彼らを一気に飲み込んでしまおうとする「現実」の存在を感じたからなのだと、今改めて分りました。


Posted by: スーダラ | September 19, 2005 09:57 PM

スーダラさん、杉山さん、こんばんは。
「ヴェラ・ドレイク」の話を皆さんとこうして深めていくと色々な可能性が頭を巡り、良い刺激になりますね。

私はあのラストシーン、家族が狭い部屋でヴェラを待ち続けるというその絵に、真っ暗闇の中のわずかな希望の光を感じたのでした。
何はともあれ、家族がひとつの場所で留まっている、一番先にあの現実から逃避できる位置にあった、娘の婚約者さえもあの団欒の中にきちんと陣取っている。厳しい現実から逃避し家族が離散することが一番有り得そうなことでまた容易な事でもあったはずなのに、あの家族にはそれが無かった。そこに私はわずかな希望の光を見たのでした。

ただ、杉山さんがおっしゃるように「一手間違えると途端に彼等の生活は経済的に破綻し、破綻は死に直結する。」といった状況下で、「家族の離散」などというある意味現実から逃避できる方法を選べる位置に彼らがおかれていなかったとすると、やはりあのラストは悲劇の象徴にも思えてしまいますね。

スーダラさんおっしゃるように「「担い手」たちは「希望」と「現実」のどちらかに過度に傾くことなく、両方を等しく究極というレベルまで引き上げることに成功しているからこそ、僕たちの心を揺さぶるのでしょう。」という言葉にはうんうん、と頷いてしまいましたよ。

Posted by: TAKUMI | September 21, 2005 12:34 AM

こんにちは、杉山です。

スーダラさんの言葉を借りれば、私達がそれぞれに選び取った幾つかの解釈は、『ヴェラ・ドレイク』というひとつの"現実"が内包する、それぞれの違った側面とも言えるでしょうか。「究極」のレベルまで引き上げられ構築された物語は、我々の日常同様に、幾つもの思惑や事象が混じり合った密度の高い世界と同義でしょう。私達はそこに「私達自身のパーソナリティ」を持ち込み、世界に触れる事で起こる化学変化を体験している、とも言えると思います。

マイク・リー監督はヴェラ・ドレイクを取り巻く世界を構築するにあたって、そこに容赦の無い社会と多くの人が持つ情愛をそのまま放り込んだかの様に思えます。そして有り難くもリー監督は、その世界をあるがままに私達に提示し、解答めいた何物も付け足さずにおいてくれました。

となればそこから派生して化学変化の結果を見極めるのは、観客である我々の側の役割。ここやスーダラさんのサイトで併置された幾つかの解釈や、世界中の似た様な場所で交わされている対話が、そのまま"ヴェラの世界"の幾つもの側面を、ごく一部分ずつ明らかにしていく作業になるのでしょう。

そうした事が可能になるのがネット上での映画談義の素晴らしい所。映画と対峙した自分自身の観点だけでなく、多様な側面からひとつの作品を見る事が出来、しかもそうした「他者の視点」から自分自身を再発見する事さえ稀ではないのですから。

それは勿論、それだけの視線の重みに耐え得るだけの"世界"があればこその話。リー監督によるヴェラ・ドレイクの物語が、彼の他の作品達と同様、そして世界中の良心的な作家達の成果と同様に、私達にどこまででも掘り下げていけるだけの鉱脈を提供してくれた事だけは、間違いの無い所ですね。

Posted by: olddog | September 21, 2005 09:57 PM

改めて俯瞰してみたり、マイク・リーの旧作と比較などしてみると、さも「分っている」かのように見えますが、実際見てるときには何度も「あぁ、自分はえらい思い違いをしていたなぁ。」と何度も彼に転がされていたのでした。
なんと言っても、あの婚約者の彼。体は丈夫なんだろうけど、何か煮え切らない彼のことを「なんとなくツイてない、冴えない人物」としか見ていなかったのです。そして同じような彼女と引き合わされて、なんとなく成り行きで求婚“させられる”ことになったのだと・・・。「あぁ、とりあえず二人が収まる所に収まって、まぁよかったんじゃないの」程度に思っていました。
ところが、ヴェラが連行されていった直後の彼のあの台詞。たった一言のあの台詞で彼だけでなくヴェラを取り巻く全ての人のそれまでの人生が立ち昇ってきて、僕はすっかりやられてしまいました。
TAKUMIさんが書かれていたように彼はヴェラがいなくなってしまったあの家にもキチンと来ていた。成り行きでそうなったのではなく、彼自身の強い意志で。
ただの「よく作られた世界」ではなく、こうした体験を映画を通して観客にさせることによってこそ「視線の重みに耐え得るだけの世界」というのが成立するのだと思います。

Posted by: スーダラ | September 22, 2005 08:42 PM

ご返事が遅れまして申し訳ありません。

> ところが、ヴェラが連行されていった直後の彼のあの台詞。
> たった一言のあの台詞で彼だけでなくヴェラを取り巻く全ての
> 人のそれまでの人生が立ち昇ってきて、僕はすっかりやられて
> しまいました。

丁度今、スーダラさんのサイトの扉に紹介されている言葉ですね。
それは単に流して観ていると、笑いを誘う場違いな言葉にさえ思えるものかもしれません。しかし私達は、ヴェラの家に彼が招かれるまでの孤独な日々と、ドレイク一家と共に彼が過ごした時間を"体感"してきています。

だからこそ、彼の言葉が場違いでもなんでもなく、その場に集う人々の想いの様なもの(暖かさも辛さも焦燥も等分に)を"味わう"事が出来た事への感動と感謝が言わしめたものだという事に、私達は素直に納得できるものなのでしょうね。

レジー一人に留まらず、幼少時の思い出を訥々と語る夫スタンや、時に冷淡に見えるジョイスがヴェラを訪ねる事に同意する様子(彼女は処世術の一環として自分の押し隠して来た一面が、ドレイク家の人々と接する事で露呈するのを恐れたのかも知れません)等から、表層にある"ヴェラ・ドレイクの物語"の下にリー監督が幾重にも塗り重ねて来た様々な物語が見て取れます。

私達が普通「世界」と呼んでいるものは突き詰めれば人の意思や感情と、それが成したものの集積です。リー監督はその事を良く承知していて、彼の物語にそれを忠実に、そして誠実に敷衍して行った、という事なのでしょう。

Posted by: olddog | September 27, 2005 10:24 PM

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