映画を巡る事柄:特集上映「ドイツ時代のラングとムルナウ」 〜 F.ラング監督作品 〜
映画祭の最後の三日はF.ラング監督の連続上映。残念乍ら名高い『死滅の谷』は上映されませんが、それ以外のドイツ・サイレント期のラング監督作品は殆どレストア版で上映されるという豪華なプログラムです。
今回はなんと言っても、世界中の死蔵されていたフィルムを集成し、"再現可能な部分は徹底的に再現した"『メトロポリス』2001年版の、ようやくの本邦公開が目玉。以前イベント的に音楽をミュージシャンが演奏する形での変形上映は行われましたが、今回は1927年公開当時のスコアを復活させての"正しい"上映形式です。
やはり普通の人々にとっては白黒映画というのはさほど食指の動かないものの様で、『メトロポリス』程の有名な作品であっても一般公開の目処は立たずビデオ発売の噂も聞かないまま、というのは、実際に(その一部であれ)作品に触れその豊かさに驚嘆した者にとっては実に寂しい事態です。こうした作品群に接するには、やはりフィルムセンターのアーカイブ閲覧機能を充実してもらうしか策が無いのでしょうか。
今では大家扱いされていますが、F.ラング監督はドイツ時代からアメリカ時代に渡って、実は一貫して「通俗娯楽」の人。『メトロポリス』や『ニーベルンゲン』の方が実は異質なのですが、通俗映画はその"製品寿命"の短さもあり余り映画史に残るものでもありません。今回はそうした一過性の作品群が大挙して公開される事で、逆にアメリカ時代のラングが「B級の予算に縛られたが故に通俗娯楽ばかり撮っていた」という通説が誤りである事の証明になるのではないでしょうか。
そうした通俗娯楽映画の作り手、現代で言えばスピルバーグやR.ハワードに相当する位置にあったラング監督像が現代では余り意識されない理由は、彼が映像に込めた過剰すぎる程のダイナミズムやパースペクティブが、当時の他の映画達から群を抜いて鮮烈に映るからなのでしょう。
極端な仰角や俯瞰によるオブジェクトの強調、画面のはるか奥にまで溢れる人物が一斉に動き出す事による躍動感と恐怖感、ひとつのショットが何かをきっかけに全く様相を変えてしまう効果の多様等、ラング監督はひたすら画面を何らかの"動き"で充填し、それによって映画の密度をどこまでも高めようとします。それは丁度ムルナウ監督が独特の幻覚効果とカメラワークを以て一画面の印象を突出させようとした手法との好対象になるものと思われます。
ドイツ時代のラング監督を語る時に落とせないのは、妻でもあった脚本家テア・フォン・ハルボウの存在。通俗作家としてキャリアをスタートさせ、ラングと知り合ってからはドイツ時代の全作品で脚本を担当しています。彼女は扱うプロットの中に"相反するふたつの社会/階層の対立"を盛り込むのが常で、物語は一方の社会からもう一方の社会へと誰かが移動する事で転がり始めます。そうした指向がラング監督の目を通すと、表面的な社会や人物像を"偽装"した存在によって社会が混乱に突き落とされるというサスペンスへと結実します。
ハルボウの極端な理想主義(というか英雄待望主義)は不幸にしてナチスへの傾倒に繋がって行く事になり、ラングの国外逃亡を契機に二人のコラボレーションは終わってしまいますが、アメリカのサスペンス映画群にもし彼女が組み込まれていたらどのような作品が生み出されていたかを考えるのは、中々楽しい想像です。
各作品の簡単な感想については、以下をご覧下さい。
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