『シン・シティ』
デジタル技術を駆使しての印象的なビジュアル、癖のある役者達が先を争う様に参加したという配役の妙、激しすぎる程のバイオレンス描写、と、巷に喧伝される本作の魅力は多々ありますが、そのいずれもが『シン・シティ』の映画としての力を語るのにはどこか足りない様な気がして、妙なもどかしさを感じてしまいます。
アメリカンコミックのお約束のひとつに「ひとつの街で一人(または一組)のヒーローが活躍する」というものがあります。スーパーマンにはメトロポリスがあり、バットマンにはゴッサム・シティがあり、スパイダーマン他マーベルのキャラクターには平行世界のNYがあるという具合。
物語の中の都市は大抵は腐敗し堕落し、ヒーローがその超人的な活躍で街の平和を維持するというのが、大抵のアメコミの基調となっていました。(近年は大分様変わりした様ですが。)
そうしたお約束から「ヒーロー」を取り除き、堕落した舞台だけを残すと何が起こるか、を描いたのがF.ミラーの連作"SIN CITY"でした。そこはバットマンもスーパーヴィランもいないゴッサム・シティ。悪徳が富と直結し、怒りと恐怖だけが人を支配している世界の姿なのでした。
そうした世界を描くとなると、必然的に「ヒーロー」は普通の人々の中から立ち現れて来ます。不正に憤る警官、筋を通そうとする荒くれ者、仲間を守る為に自警団を結成する弱者達。ミラーは街の普通の人々の中から沸き上がるヒロイズムを、不在のヒーローに変えて中心に据える事で、物語の体裁を整えます。
要するにそれは、コミック以前、映画以前から存在した、古典的な筋立てに他成りません。世の不正に憤る者が己の力だけを武器に巨悪に立ち向かう。大抵は彼等自身のささやかな何かを守る為に。古くはシンプルな正義感を掲げた西部劇に、少し後には諦観と哀切を秘めて描かれたハードボイルド小説やフィルム・ノワールの世界に、そして過剰なバイオレンスに飽和した『ダーティ・ハリー』の時代にまで至る、「正義の通用し難い世界で正義を求めようとする物語」の延長線上にあるのが、『シン・シティ』なのでしょう。
そういう意味では、R.ロドリゲス監督が『シン・シティ』の映画化に手を挙げてくれた事は最上の幸運だったのではないでしょうか。ロドリゲス監督はマリアッチ三部作で古典的な正邪対立を描き切った人。彼のどこまで過剰にアクションやバイオレンスを描き出してもそれに溺れず、最終的に物語の本質に立ち返ってみせるバランス感覚と芯の強さは、作劇上のリアリティを過度に無視するか意識するかのどちらかに揺れがちな「コミックの映画化」には不可欠のものでした。
彼の映像感覚が持つ振幅の激しさは、一方でビジュアルを統制し時には禁欲的なまでにスタイルに固執するミラーの作風に、驚く程的確に呼応してくれました。元々表現の自由度と言う点では実写映画より格段に上位のレベルにあるグラフィックの世界を、その画風だけでなくリズムや雰囲気までも含めてスクリーンに"再現"してしまった表現力には驚かされます。
コミックの世界をそのままスクリーンに持ち込んだ例では既に『ディック・トレイシー』におけるV.ストラーロの例がありますが、『シン・シティ』では単にタッチをなぞるだけではなく、原作コミックがそのタッチを選択する事で得ようとしたものを、真摯に追求して見せ、見事それを獲得する事に成功した様に思います。
結果として映画『シン・シティ』は、その過剰な描写の累積とは裏腹に、ごく古典的かつシンプルな物語 - 報われぬ世界の中で優しいタフガイと高潔な悪女が苦闘する物語 - が強烈に自己主張する映画となりました。優れたコミックを読み通した読後感と似て、映画を観終えた後に感じるのは豊穣さよりもむしろ一本芯の通ったストイシズム。"方向性を定めてそこに向かって一点集中する"という製作姿勢こそが、その過程で選択されたビジュアルスタイルや話法を超えて、本作を傑作の域にまで押し上げた最大の要因なのでしょう。
The comments to this entry are closed.

Comments