『シンデレラマン』
大恐慌時代の渦中、職を追われ貧困の中にいた民衆は、苦闘を共有しそれが報われる事を保証してくれる英雄を、スポーツの世界に求めました。名馬シービスケット号がアメリカ中西部を湧かせた一方で、東部のNYでは、一人の港湾労働者が"貧しき者達"の代弁者としてヘヴィ級タイトルのリングに上がります。
資格を剥奪された不運続きのボクサー、ジム・ブラドックがリングに上がるのは、名声や栄光を取り戻す為ではなく、ひとえに「ミルクの為」。彼の拠り所である家族を守り、(当時ごく普通の光景だった)育てる余裕の無い子供達が親達から引き離される不幸から我が子を守る為です。その為に、怪我や時には死と引き換えにファイトマネーを得る事は、波止場で危険と引き換えに日当を得る事と何も違わない、とブラドックは言い放ちます。
劇中の拳闘場面もブラドックの主張に呼応する様に、彼が如何にして「ファイトマネーを確保し、生きて帰るか」を追うサスペンスの場として作られています。演出や編集のレベルまで殆ど『レイジング・ブル』を模倣しながら、だからこの映画のファイトには、圧倒的な力が見せつける鼓舞や恐怖は見出せません。闘う相手が誰であれ、ブラドックはただ「自分の仕事」を黙々と果たすのみ。相手を打ち倒す事よりも、自身が「打ち倒されなかった」事の方に、明らかに主眼を置いて構成されているのが、本作の拳闘場面なのです。
そのようにして映画は、リングに復帰するブラドックを単なる「不遇のボクサーが再起する」ドラマではなく、大恐慌時代に殆ど全ての人が陥っていた苦境と闘う姿の象徴として捉え直しました。彼の闘う姿を目にする観客は(劇中試合を観戦する観客も、またスクリーンを前にした観客も共に)、自身の天分を発揮出来る場と、天分を証明する機会を与えられれば、誰でも何かを達成する事ができる事を、ブラドックの姿を通して再確認しているのです。
残念乍ら映画は後半に至って、そうした方向性からの逸脱を始めます。復帰したブラドックが連勝を始め、家族が一応の苦境を脱すると共に、彼(と当時の人々)が抱える切迫感はどうしても薄れてしまいます。映画はその埋め合わせとして、ブラドックが何故ボクシングを続けるのかを改めて図示しようとし始めますが、正直に言ってそれは過去幾つものボクシングを主題とした映画で語り尽くされたもの。不遇の時代に不遇に挑む男としてのジム・ブラドックの物語に、馴染むものではありませんでした。
結果として最後のヘヴィ級タイトルマッチは、迫力の面でずっと小振りな復帰第一戦に比べて、ずっと見劣りするものになってしまいました。遥かに若く力強い相手に伍して引かないブラドックの姿よりも、"家族の離散"という重荷を前に不適に笑うブラドックの方がずっと昂揚してしまうというのは、映画のテーマから考えても致し方の無い所だったのでしょう。
R.ハワード監督の映画らしく、本作も主題を取り巻く魅力的なサブキャラクターとサブエピソードが満載。特にP.ジアマッティ扮するマネージャー、グールド役が目を引きます。英雄を見出し相応しい舞台に上げる為に、ひそかに家財道具を売り払って金の工面をする彼の姿には、「必ずしもそれが人の目には触れなくても、偉業と言うものは常にどこかの誰かの手で成し遂げられているのだ」と言う、近作で常にハワード監督が作品に忍び込ませている主張を感じさせられます。
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Comments
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Posted by: tarot barato | May 24, 2015 11:37 PM
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Posted by: tarotista bueno y economico | May 27, 2015 06:16 AM