『理想の女(ひと)』
ある一場面、または場面の中のひとつの瞬間が、映画の価値を一段も二段も引き上げてくれる事があります。本作『理想の女』に訪れるその"瞬間"は、映画のクライマックス、アーリン夫人とウィンダミア夫人の最後の邂逅にありました。
理想とする女性は幼い頃に死別した母親だ、と聞かされた当の(実は生きていた)母親 - 若さ故の過ちによって今では名乗る事も憚られる彼女の、歓喜と悲哀を一瞬に凝縮してみせたその表情が素晴らしい。些か通俗的メロドラマとして進行して来た、母娘を巡る猜疑と良心の物語は、彼女のほんの数秒の反応によって、「猜疑を乗り越えて何かが力強く立ち現れて来ること」を、力強く宣言する物語として結実してくれました。
毎度の事ではありますが、例に寄ってキャッチコピーは映画の狙ったものから少々的を外しています。この映画の中での"良い女"の条件は、何も知らない事でも全てを知っている事でもなく、知ってしまった何かを彼女達がどのように抱え込むかにかかっている様です。
かつて家族を捨て、今では後ろ盾も無く社交界の片隅にしがみついている母親と、いずれ夫婦生活に忍び込む疑念と初めて対峙する事になった娘とが投げ込まれているのは、善かれ悪しかれ虚構が支配している世界の縮図たる"社交界"。真偽の程ではなく"それがどれだけ面白いか"が価値を持つ舞台で、彼女達は「誠実であること」の本来の意味を探し始めます。
生き延びる為に娘に再接近する"アーリン夫人"は、本作の中では良心と誠実さを測るリトマス試験紙の様な存在です。まるで背徳の代名詞の様な来歴と噂を伴って現れた彼女と直面する者は一様に、自ら持っていると信じて疑わなかった良心と良識が、果たして自らの内部から湧き出た者なのか、それとも自身を取り繕う仮面であったのかと、強く自問させられる事になります。
それは測る立場であるアーリン夫人もまた同様。彼女の前には常に、社交界の持つ良識と欺瞞の双方が揃って提示され、それがそのまま彼女の過去と二重写しとなって、彼女を試し続ける事になります。社会の欺瞞を知り抜いている彼女であるからこそ、自身の次の一手が更に欺瞞を塗り重ねる事に無関心ではいられず、彼女を人知れず衰弱させて行く事になります。
アーリン夫人も含め劇中の誰も気付いていませんが、彼女がアマルフィに到着する頃には、多分彼女自身(と彼女の象徴する"欺瞞を積み重ねる事で成立する社会")が瓦解する瀬戸際にいたのでしょう。
現在では幸福なウィンダミア卿夫人であり、かって自らが捨てた娘が、以前の自分と同じ過ちを繰り返そうとする事態が、アーリン夫人にとって(彼女自身も気付かぬうちに)自身を救済する最後の機会となります。
娘の行為は単なる激情の果ての駆け落ち等ではなく、塗り重ねられた欺瞞によって見据えるべき真実を見誤る事、自らを取り繕う為の"仮面"に主体を譲り渡し、仮面の背後にいる筈の「本来の自己」を滅ぼしてしまう行為に他なりません。
かつて同じ過ちを犯した後"アーリン夫人"という仮面だけを頼りに世を渡って来た彼女は、「猜疑に身を任せて真実 = "最愛の者"を失う」事の空虚さを誰よりも知っています。そうした彼女にとって娘が同じ道を辿る事は、残された最後の「自分自身」を失う事にも等しかったのでしょう。
そこに私は、如何に数奇な来歴を経ても失われずに来た、普遍的な「母親」としての感情を見て取った様に思いました。
駆け落ち相手の船上で娘に追いついた夫人は、初めて誰に対しても纏っていた虚飾を捨て、一人の人生経験豊かな女性 - "母親"として娘と対峙し、同時に"アーリン夫人"の仮面を、これまでとは全く逆の目的の為に、「社交界という閉じた世界」に対して突きつけます。
自身は虚構の世界に埋没する事で、一人の女性に真実を見据える力を取り戻すその行為は、娘を捨てて以来の彼女の来歴全てを「欺瞞」と断じる事にもまた繋がります。それこそがアーリン夫人自身が見据えねばならなかった真実であり、だからこそその行為には、劇中語られる以上の悲痛さが伴います。
そして、その悲痛さがあるからこそ、冒頭に掲げた一瞬が大きな価値を持って観客に迫って来るのでしょう。
欺瞞に満ちた"アーリン夫人の来歴"全てを取り払ったとき、残ったのは(言葉の本来の意味で)良心と誠実さを併せ持った「理想の女性」だった事。目の前にいる実の娘がその事を保証し、しかも未だ名乗る事も出来ない自分を「理想の女性」と同義になぞらえてくれた事で、"アーリン夫人"の仮面は、ようやく単なる仮面としての位置に留まる事になります。
物語は彼女にもどうやら幸福な将来が訪れる予感(T.ウィルキンソンの味のある芝居が素晴らしい)を示して終わりますが、例えその一筆が抜け落ちていても、充分に彼女は救済され、後の人生を全うする力を与えられたものと思います。
言及したふたつの場面、いずれも演出の力というよりは、ひとえに"アーリン夫人"を演じたH.ハントの演技力に依っています。監督はどうも中盤の描写に事実露見のサスペンスを嗅ぎ取ってしまった様で、(『見知らぬ乗客』のP.ヒッチコックそっくりの人物まで登場させる程に)そちら方面に力を入れ過ぎた演出をしてしまった様ですが、ハントの造形した人物像は、そうしたサスペンス風味を突き崩すだけの重みと迫力を見せつけてくれました。
船上で娘を「叱り付ける」時の、これまでのアーリン夫人とは打って変わった威厳と愛情の発露、そして娘に別れを告げる場面の全てを呑み込んでみせたあの表情の変化は、段取りとサプライズが形作るサスペンスの枠組みを完全に超越したものでした。まるで「虚飾を突き抜けて真実が露呈する」過程を、そのまま演出と演技の綱引きがなぞってみせた様で、(少々意地悪な見方ですが)面白く思ったものです。
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Comments
こんにちは、TAKUMIです。
私の以前のリクエストに応えてくださったのか(?)「理想の女」ご覧になったのですね。
「杉山さんの感想が聞きたい」などと言ってしまった後で、私はこの映画に足を運んだのですが、杉山さんにお勧めした事をちょっと後悔しましたよ。何故って一見綺麗に描いているようですが、結構これって女の狡猾さが見え隠れする「男には見られたくないタイプの映画」だったから(笑)。これは「ピアニスト」を見た時の気持ちと似ていますね。
映像の美しさや独特の雰囲気は良いにしても、アーリン夫人のキャラクターや生き方が中途半端で魅力的なものに見えなったのがちょっと苦しかったかな。
同じ女性の為の映画でも「イン ハー シューズ」はそういった違和感がなく秀作でした。
機会があればこちらもどうぞ~。
Posted by: TAKUMI | November 23, 2005 09:10 PM
TAKUMIさん、ご無沙汰しております。
最近はシネマコンプレックス専門になってしまったもので、本作の様な上質の"単館上映作品"を紹介していただけるのは有り難い事です。
男の私の目から見ると、女性らしい狡猾さに雁字搦めになっていたアーリン夫人がその狡猾さをも武器に用いて娘の名誉を守ると言う筋立ては、さほど嫌悪を感じるものでもありませんでした。
以前原作戯曲に接していて、アーリン夫人が以前、娘メグがたった今直面しているものと全く同じ葛藤を経、同じ岐路に立った事を知っていた事が、私には幸いした様です。原作ではアーリン夫人のキャラクターと最後の行動を形作るこの重要なパーツを、映画版では完全に削ぎ落としてしまったのは残念。
『イン・ハー・シューズ』はかなり評判が良いですね。こちらも楽しみにしております。
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