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December 13, 2005

『ティム・バートンのコープス・ブライド』

人形アニメーションの映画を語る時にはそぐわない話題なのかもしれませんが、本作を観て感じたのは、「CGIの氾濫がどれほど私達の映像への対し方を変えてしまったか」という事でした。それは安直なデジタル映像嫌悪の様なものではなく、「リアリティに対する意識」が曖昧になっている事を再認識させられた事から来る、驚きと戸惑いによるものなのだと思います。

フォトリアリスティックな映像を"創作"する事に関しては、デジタル技術は現在一応、完成の域に達したと言って良いでしょう。ファンタジーやSFの大作に登場する魅力的なクリーチャーから背景の微妙な修正に至るまで、現代の作品でデジタル技術の力を借りずに作られた映画は、今では珍しい部類に入ります。

観客である私達もまたそれを受け入れ、実在しないデジタル情報の集積を「現実の風景」とごく普通に併置し、等価に扱う事が当然と感じるまでに至りました。

その結果が私達にもたらしたものは、スクリーン上に展開される全てを、実景であれ虚構であれ、等しく「スクリーン上のイリュージョン」として認識する、という一種の公平さ。虚構のデジタル情報が実在の風景や役者達に当然の様に混ざり込んでいる作品を、(意識的にでも無意識的にでも)鑑賞している私達は、"本物らしさ"に対する認識を、根本的に捉え直している状況にあると思うのです。

例え実在しないデジタル情報であれ、実際に撮影されたモチーフと混在して映画を形作り、それを観客が「スクリーン上の真実」として受け止める事が出来るなら、両者には本質的な違いは何も存在しない。そうした意識は、スクリーン上に"何を描くか"という選択肢を、リアリズムへの留保という枷から自由にしてくれるものなのではないでしょうか。

前置きが長くなりましたが、そうした観客側の認識の変化が最も良い方向に作用した例が、本作『コープス・ブライド』を始めとするアニメーション作品なのではないかと思うのです。

物質的リアルとフェイクの間の垣根が消失するという事は、アニメーション映画を「"アニメーション"を見る」という事前の心構え抜きで観る事ができる、という事でもあります。従来そうした心構えと共に「虚構を虚構と弁えた上で鑑賞する」自分に自覚的にならざるを得なかったアニメーション映画(と、その周辺に存在する幾多の幻想的視点を持つ映画群)を、単に「独特のフォルムとスタイルを持った一本の"映画"」として捉えられるという事は、より直接的に物語世界に接する、という事でもあるでしょう。

実際私は、本作『コープス・ブライド』が始まってほんの数分で、それが「人形をコマ撮り撮影したもの」である事を完全に忘れていました。画面を動き回る人形達は、他の映画達に登場する「デジタルにより色彩とフォルムを微妙に整えられた(のかもしれない)生身の俳優達」と、完全に等価の存在と映ったのです。

勿論それは、単に受け手の意識の変化のみによるものではなく、まず送り手の真摯な表現への対峙と技術によるものである事は言うまでもありません。その点本作が到達したレベルは驚異的。アニメーションのパートと声の演技のパートそれぞれの芸達者が創出したそれぞれのキャラクターは、完全に独自のパーソナリティを備えた存在として登場してくれました。

バートン作の人形アニメーションと言えばやはり『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』を思い出しますが、ハロウィンタウンの住人達がそのフォルムの多彩さと魅惑的なパフォーマンスを印象づけてくれたのとは対照的に、『コープス・ブライド』の登場人物達は、その仕草や表情の微妙な変化や差異、そこから醸し出される魅力際立たせます。押し付けられた婚姻を前にしたビクターとビクトリアの困惑と不安と期待の表情、二人の両親が見せる酷薄さと無神経の念入りかつ鼻につかない描写は、所謂"アニメーション映画"の紋切り型の演出とは、明らかに一線を画す奥深さ。タイトルロールになっている"死者の花嫁"エミリーに至っては、その些かグロテスクな外観にも関わらず、今年私が観たどの映画よりも、最も美しくチャーミングで、しかも奥深い精神を有した女性として描き出されていました。

特殊なフォルムを持つ人形達を「普通の人々」と認識することは、そのまま特殊な世界の住人が日常に浸食する『コープス・ブライド』の物語に呼応します。そこでは登場人物達の驚きや当惑程には生者と死者の境界ははっきりしたものではなく、それを眺める私達にも生者と死者が混じり合う事に対する違和感はほとんどありません。それはもともとアニメーションという表現手段が持っていた「異形を異形として観客に"受け入れさせる"」機能と共に、作り手が意識的に「異形と普遍の垣根を取り払う」方法論を採択した結果の様に思えます。

無数の蝶に包まれてエミリーが"昇天"するラストシーンは、CGIと人形アニメーションの合成で描かれます。旧来の技術と新興の技術を併置して描かれたこの場面においても、長くこの種の映画を観続けて来た(少々ひねくれた)私でさえ、相反する両者がひとつの画面を形作る事になんの違和感も抱きませんでした。というより、"そこに如何なるテクニックが使われているか"を完全に忘れて映画に魅入る事ができたのです。既存の技術と、その「受け取られ方」まで含めての選択が行われ、その全てが「物語に奉仕する」という、映画として最良の形態が小品『コープス・ブライド』には結実していました。

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Comments

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Posted by: 日本インターネット映画大賞 | December 29, 2005 01:18 PM

いつもお世話になっております。今年も喜んで参加させていただきます。

Posted by: olddog | December 29, 2005 11:30 PM

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