『Mr.アンドMrs.スミス』
『スミス夫妻』と言えば死者も犯罪も出て来ない唯一のヒチコック映画。倦怠期に至った夫婦の右往左往をサスペンス映画の手法で描いた意欲作でしたが、同じタイトルを持つ2005年の本作は一転してアクション満載の娯楽活劇。それなのに物語の力点は、不思議な位ヒチコック監督作品のそれと同じ所に置かれているのでした。
結婚5〜6年目に訪れるスミス夫妻の結婚生活の危機は、実は夫妻それぞれが持つ裏の顔とは余り関係がありません。例えば夫妻の隠された仕事が暗殺ではなくごく普通のものであったとしても、同じ様に危機は訪れたでしょう。
夫妻の問題は彼等が秘密を抱えていた事ではなく、完璧に秘密を隠し通していたが故に、相手の表の顔が相手の全てだと思い込んでしまった事。「秘密の残り滓」だけで出来上がった人生ならば、確かに退屈し幻滅するのも致し方ない所でしょう。大抵の映画とは逆にスミス夫妻の物語は、露見することではなく、露見しない事によって緊張を高め観客を煽る構造を持っています。
遂に互いの正体が知られる所となり、夫妻がそれぞれの全存在をかけて互いのパートナーと対峙し始めると同時に、観客が感じる奇妙な安堵はその為なのでしょう。そこから先の夫妻が抱くのは、どんな人間関係にも"ごく普通に存在する"疑惑と諦観とささやかな鬱憤の集積。例え互いを殺し合おうとしている時も、後には手に手を取って死線を潜り抜けている時にも、"相手を値踏みし、価値観の違いに苛立ち、妥協点を見出そうとする"夫妻の行動は私達にはお馴染みの心理プロセスです。
言わばスミス夫妻は、普通の夫婦なら結婚後5年もあればとうに済ませている儀式の、三日間の速修コースを受けている様なもの。B.ピットとA.ジョリーという何が起きても死にそうにない二人組を得て、観客は彼等の派手なアクションに喝采を送りつつ、夫妻が学んで行く過程を楽しむ事ができる、という趣向。いつのまにか私達は、彼等が追っ手を振り切る事よりも、「二人がいつまで一緒にいられるか」の方を心配しています。
硬質すぎる位に硬質なサスペンスアクション『ボーン・アイデンティティ』でメジャーに進出したD.リーマン監督は、本作では一転してハリウッド大作らしい豪華で派手な展開と映像を連打して、この「アクション映画の皮を被ったありきたりな夫婦の小競り合い」を纏め上げてくれました。
これまでの本格アクション映画を軽く凌駕するほどのカーチェイスや銃撃戦のさなかにも気の利いた会話やウィットを忘れず、迫力よりも小気味よさを重視したスタイルは現在の映画の中ではむしろ貴重な部類。今回リーマン監督は、やはりヒッチコックの『泥棒成金』に代表される一連の"洒落たサスペンス映画"が私達に与えてくれた感覚の再現に務めている様です。
それは共闘するスミス夫妻が仕事のスタイルの違いから口論を続ける場面や初めて二人で危機を乗り越えようとするときの妙な昂揚感の描写となって具体的には現れます。夫のマイペースな仕事運びに辟易する妻の描写や妻の"営業成績"が自分より上だったと知って拗ねてみせる夫の描写をアクションシークェンスに逐一盛り込んで行く事で、観客は夫妻が陥っている危機を余裕を持って楽しんでしまう。
同時に描かれるのは隠された本当の主題、夫婦間に存在するより深刻な"危機"が解消されて行く過程です。リーマン監督はふたつの危機をひとつの場面に融合する事で、観客には危機を楽しむ余裕を、作品自体には一本のしっかりした芯を与えてくれたのでした。
かくて映画は、序盤は相手を知り尽くしたという錯覚から来る閉塞感、次には相手への信頼を失う事による疑念と猜疑、後には自分の目指す方向に相手が歩を進めてくれない苛立ちと、夫婦生活に忍び寄る様々な"危機"をひとつずつ乗り越えて行く夫婦の物語を、その"危機"が一風変わった衣を纏ってやってくる事で、豪勢なアクション映画の枠組みの中で語る事に成功してしまいました。過去のヒチコック監督が、「サスペンスの物語をサスペンスが存在しない枠組みの中で語る」実験として制作した『スミス夫妻』とは真逆のアプローチですが、観客がアクション場面を差し置いて夫妻の行動に一喜一憂できた所を見ると、リーマン監督の狙いは見事に成功したと言って良いのでしょう。
夫妻が互いへの信頼と敬意と愛情を取り戻し、映画が本来のハッピーエンドに到達した後に登場するのは『ワイルドバンチ』以降お馴染みとなったバレット・バレエ。わずか数十秒のシーンですが、入念な演出と構成、そしてB.ピットとA.ジョリーの息の合った見事なパフォーマンスによって、(映画中盤のタンゴを凌ぐ程に)実に"美しい"ダンスシーンになっていました。派手で豪華でちょっと皮肉の効いた映画に相応しいカーテンコールです。
The comments to this entry are closed.

Comments