『ポビーとディンガン』
T.ギリアム監督が新作で諦めた主題「幻想の力と現実との拮抗」を、思わぬ所で見出す事が出来ました。イギリスの監督P.カッタネオによるオーストラリアを舞台とした本作『ポビーとディンガン』は、実は人々の見る"現実"なるものも又、人々のイマジネーションの集成に過ぎないことを解き明かして行きます。
幼い子供が"想像上の友達"を持つのは、どうやら世界共通のもののようです。子供に限らず、大抵の人は想像の領域に何か大事なものを持っていて、それが人それぞれの欠く事のできない一部分を成しているものなのでしょう。
時に理想や希望と呼ばれ、時には妄想や夢と片付けられるそれらを一旦併置し、その影響の強さを改めて眺め渡したのが、『ポビーとディンガン』の、幼い兄妹アシュモルとケリー=アンの物語。同時にそれは、想像の力が無ければ実は生きて行く事すら困難な、私達全ての物語でもあるのでした。
アシュモルとケリーアンが住むのはオーストラリアでも有数のオパール鉱山。そこは良質なオパールを掘り当てて「一山当てる」事を夢見た男達が集まって出来上がった集落です。"未来に待っている筈の大当たり"というイマジネーションだけを頼りに、日々坑道に潜り込み岩を掘り続ける彼等の姿を、映画は事あるごとにケリー=アンの"想像上の友達"と併置して行きます。
それはさながら、彼等(とそして我々)の生活の基盤は、全て夢想の上に建っていると宣言するかの様。人を何かに駆り立てるイマジネーションを否定する事は、その人自身を否定する事と同義なのだと、映画はケリー=アンや鉱山の男達から、そして彼等の家族それぞれが秘めた夢想を暴き出して行く事で、繰り返し観客に再確認を迫ります。
人の想像の力は何かを成し遂げる為にではなく、成し遂げるに至るまで人を支え続ける事の為にこそある、という事なのでしょう。夢破れた者達は鉱山を去り、友達を見失ったケリー=アンは心の支えを失い倒れてしまう。そして想像の力に溺れる者は、他者の持つ夢想を容認せず、それどころかそのようなものがある事にすら気付こうともしません。異なる夢想の対立は、人々が"思う"以上の衝突と悲劇を引き起こします。
オパール鉱山の人々が陥ったのはそうした陥穽でした。夢想をただ夢想として片付け、自分たちはその外側にいるのだと頑に言い張る事で、実は自らの立ち位置までを否定してしまう。自らの夢想を直視し、それがそこにある事を認める事でしか、彼等が自身を肯定する手段はありません。
アシュモル少年は、それを幼い妹への親愛と信頼の力によって成し遂げます。それが如何に馬鹿げた妄想だとしても、妹がその実在を疑わないのなら、「それが実在しては"いけない訳が無い"」。アシュモルが坑道の奥で目にしたのは決して超自然の類では無く、ただ「妹ならそこに当然見るはずのもの」だったのでしょう。
そしてアシュモルは、自分が得た共感を鉱山の皆に開放する事で、結果的に鉱山の男たちが抱えていた閉塞感を打ち破り、彼等の目を再び輝かせる事に成功します。そこにいる誰も気付かなかった(若しくは"気付こうとしなかった")けれど、ウィリアムソン一家に向けられた猜疑の視線は、いずれ彼等自身が向け合うものとなり、ゆっくりと共同体を破壊して行った事でしょう。
存在する筈の無い者の葬儀を執り行い参列する事で、彼等は一人の少女が持っていたイマジネーションを実在のものと認め、イマジネーションを共有する者達の一員となります。しかもそれは集団ヒステリーの結果としてではなく、彼等自身の理性なるものが選択した結果として行われるのです。自分では無い誰かを認め、尊重するという行為の中では、それは最も深い部類に位置づけられるのではないでしょうか。
現実に伍するイマジネーションの力を認める物語には、それが現実に作用し様相を変えてしまう程の結末が求められます。原作小説では、鉱山の皆が"ポビーとディンガンの実在"を認めたにも関わらず少女ケリー=アンの衰弱は止まらず亡くなってしまうとの事ですが、映画の中のケリー=アンは健在のまま。人を動かす原動力として夢想の力を定義した物語として、あり得べき結末だと思います。
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