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January 29, 2006

『キング・コング』

評価の定まったクラシックをリメイクする動機には、大別すれば2種類ある様です。ひとつは2005年版『宇宙戦争』の様に、オリジナル版が当時の観客に及ぼした効果をそのまま現代の観客に届けようとする試み。もうひとつは、オリジナル版が如何に素晴らしかったかを観客に再認識させることを目的としたもの。P.ジャクソン監督の2005年版『キング・コング』は、明らかに後者の立場に立っています。

それは又語り手たる監督の立ち位置を示すものでもありました。リメイクという行為はある意味"伝承"の役割を担うものと言えますが、語り手によっては語るべき物語の中に「自分が如何にその物語に魅了されたか」を過剰に盛り込み、却って物語の持つ力を減じかねない事態に陥る事があります。今回ジャクソン監督は、そのぎりぎりの線でかろうじて踏みとどまっている印象を受けました。

"現代文明社会と南方の秘境"というはっきりした境界線を持っていた1933年版と異なり、2005年版の『キング・コング』は、登場する舞台の全てが、魅惑的な異世界の領域に属しています。"秘境"が実在する可能性を未だ持っていられた1933年の観客と異なり、世界から秘境が失われて久しい2005年の観客に取っては、銀幕で展開される光景がすべて現実世界の埒外となってしまうのは致し方の無い所。

そうした観客側の変化を踏まえて、ジャクソン監督がまず活写するのは1933年のニューヨーク、特にボードヴィルとブロードウェイに代表されるショービジネスの世界です。大恐慌下の過酷な世界である筈のそこが(ボードヴィル芸人アン・ダロウの悲惨な境遇にも関わらず)魅力的にかつ楽天的に見えてしまうのは、ジャクソン監督の「1933年」という時代に向ける郷愁がそのまま画面に現れてしまうからでしょう。

監督はこの時代を「コングの存在を許容しえる最期の時代」と捉え、そうした時代が存在した事への称揚と、それが失われてしまった事への哀訴を画面に染み込ませていきます。それは則ち、まだ登場人物が出揃わず"ベンチャー"号が錨すら上げない内に、映画が観客に手の内を明かしてしまう事を意味します。この映画は「何かが失われる過程」を描いた物語なのだ、と。それがジャクソン監督の犯した最初の失策だったのでしょう。

2番目の失策は、監督の登場人物に向ける視線に現れます。強弁を承知で言ってしまえば、『キング・コング』というのは美女と野獣の物語であると同時に、愚昧な山師達の物語でもありました。自分がどれほどの危険と災厄を招くかに気付かず、災厄に見舞われてもそれが自身の招いたものだと気付く事の出来ない愚者達の存在が、粗野と凶暴性の象徴たる野獣に実は備わっていた純粋性を輝かせる、という構造が『キング・コング』の根底には存在します。

しかしジャクソン監督のオリジナル版への愛情(とりわけオリジナル版に登場する人物達に寄せる愛情)は、愚昧な男達を愚昧なままにしておく事を佳しとしません。背景を描き込み、粗野な風貌と物腰を持つに至る過程と境遇を作り込み、時には立場や役回りを取り替えて、ジャクソン監督はベンチャー号に乗り込む一行に観客の愛着と共感を呼び寄せようと務めます。その結果、この映画には悪役らしき悪役の一人も登場しない、映画の結末には何かが失われる事が判っているにも関わらず、その責を誰にも負わせる事ができないという曖昧さが持ち込まれてしまいました。

そうした監督の過剰な思い入れを最も受けたのが、本作のもう一方の主役ともいえる映画監督カール・デナムでしょう。J・ブラック演じる彼は、旧作での単なる向こう見ずな山師という立場を超え、肥大した自らの表現欲をどこまでも追求する、偏執的な表現者としての顔を与えられます。

ジャクソン監督はデナムのキャラクターに、1930年代にニューヨークで活躍した実在する天才、オーソン・ウェルズの人物像をそのまま当て嵌めてみせます。当時のウェルズはオフ・ブロードウェイで物議を醸す芝居を次々上演し、ラジオドラマでは独特の声音で全米を魅了しつつ『宇宙戦争』騒動を引き起こし、自ら脚本化した『闇の奥』を引っさげてハリウッド入り目前という時代の寵児。ジャクソン監督はその様な才気あふれるウェルズのキャラクターと、(残酷にも)スタジオにぞんざいに扱われ制作費の調達もままならない戦後の彼の境遇を合わせてデナムのキャラクターに押し込みます。

実在すら危ぶまれる目的地に大人数を送り込み、そこから凶暴な大猿を捕まえて戻って来るという無謀を成し遂げる為には、単なる功名心だけでは足りなかったのでしょう。2005年版のデナムに与えられた強烈な表現欲と自己愛は、本作に巨猿に匹敵するもうひとつのモンスターをもたらしました。

この"もうひとつのモンスター"、どこまでも肥大する欲求と、それが引き起こす犠牲を省みない傲慢さの体現者は、先程挙げたジャクソン監督の失策から、映画をかろうじて救う突破口になりました。本作のデナムやウェルズの様な人物も又、時代から消えて行く事を余儀なくされる存在です。監督はデナムを巨猿キング・コングと同列に置く事で、映画の結末で「失われる何か」を垣間見させる事に成功しました。・・・・同時に、監督のこのアプローチは、本作を1933年版とは全く違った主題へと導く事になります。

ベンチャー号が髑髏島に到着し、一行の冒険が始まると共に、ようやく本作はアドベンチャー映画としての顔を見せ始めます。時に凄惨で時におぞましい古代生物との邂逅は、そのアイディアの豊穣さとスピーディーな演出によって特上のスリルとサスペンスを提供しながら、常に魅惑的な一面を見せ続ける事を忘れません。暴走するブロントサウルスに伴走する事。巨大な猿や凶暴なティラノサウルスと共に空中ブランコを演じる事。怪物の死闘を特等席で見物する事。そのどれもが、少年時代に夢見た光景である事は間違いありません。合理や理性の通用しない、圧倒的な「野生」に身を晒し、自らその一部となる楽しさを、映画はたっぷりと観客にもたらしてくれます。

タイトルロールでもある巨猿"キング・コング"は、そうした「野生」の体現として登場します。過剰な思い入れを映画のあちこちで振りまきながらも、ジャクソン監督はこと彼に対してだけは、正当な解釈と慎重な表現を通し続けてくれました。彼を怪物と見るのは文明社会に属する視線のみであり、同時に彼は善良なヒーロー等では決してなく、あくまで自らの感情と欲求を率直に表出する髑髏島の"王者" - それも年振り孤独を忌み嫌う様になった王者 - としてあり続けます。そうでなければ、観客である私達は、彼に尊厳や畏怖を見出す事なく、単なるマスコットとして彼を認識する羽目になっていたでしょう。魅力的なエピソードを作り出す才をことコングに対しては一切用いず、どこまでも彼の純真さと力強さを描き出す事に務めたジャクソン監督の自制と、その意を受けてコングのパフォーマンスを完成させたA.サーキスの共同作業こそ、本作で一番光り輝いている部分でしょう。

自らの領地で王として振る舞っていたコングは、領地を離れ文明(則ち打算と合理)に接触した途端にその力を失います。ニューヨークで鎖を引きちぎり暴れる彼は、相対する人々にとっては恐怖する存在かもしれませんが、スクリーン越しに見ている私達には、異国の地で途方に暮れ、自暴自棄になっている子供の様な印象を与えます。そしてこの時、孤独な王者の中に常に潜んでいた、何か(誰か)を求める気持ちに、初めて観客は気付かされる事になります。

ジャクソン監督が定義づけた"キング・コング"とはそうしたものでした。彼は常に「ありのままの自己」を提示しそのレスポンスを期待し続ける存在であり、恐れる事なくレスポンスを返してくれる存在を待ち続けていた存在でした。だからこそ彼は、単に怯えるだけではなく、恐怖を超えて彼を"見ようとした"アン・ダロウにこれほど執着したのでしょう。(そしてそれは、「表現する事」のみに固執しそのレスポンスを気にかけないカール・デナムのキャラクターと、鮮やかな対比を為しています。)

NYで再会したアンと巨猿は、氷結したセントラルパークの池でつかの間のデートを楽しみます。モンスターの死闘が売りものの映画で見られるとは思ってもみなかった程の美しさと幸福感で描かれるこの場面を以て、ようやく映画『キング・コング』は、1933年来様々なジャンルで綴られ熟成されて来た"キング・コング"のキャラクターを全て描き切り、纏め上げる事に成功しました。それは決してクーパーが企図した凶暴なモンスターではなく、オブライエンがその造形物に秘めたヒーロー像に留まるものでもありません。70年以上も人々を魅了した、凶暴さと純真さの同居する、哀れな境遇ではあるけれど決して哀れみの対象に甘んじないだけの尊厳を併せ持った、映画史上屈指の魅力的なキャラクターとしての"キング・コング"を、ジャクソン監督は(おかしな話ですが)"初めて"スクリーン上に描き出す事に成功した、と言えるでしょう。

あらかじめ映画の至る所で予告されていた様に、映画が造り出した魅惑は映画の結末において失われる事になります。しかしそれは、大抵の『キング・コング』に対する解説や論評にある様な「コングに象徴される"未知"の喪失」ではありません。ジャクソン監督は、コングの死と共にもう一方のモンスターにも退場を促します。

デナムが呟く「野獣を殺したのは美女だ」という言葉が、これほど場違いに響くのは何故なのでしょうか。オリジナルの台詞彼が発するのは"it was beauty killed the beast. "という言葉です。ここでの"beauty"が、髑髏島とマンハッタンに沈むふたつの夕日を指してアン・ダロウの呟いた"beautiful"に通じているのは間違いの無い所でしょう。しかしそれは、アンと巨猿と観客の間にだけ通用する真理です。

デナムもまた、"beauty"に殺された野獣なのだ、とジャクソン監督は映画の結末で訴えます。彼にとっての"美" = "何かを誰かに見せる事"が生んだ悲劇を目の当たりにして、遂にデナムは自らの破壊性に気付かされます。そして気付いてしまった彼には、もはや何かを創造する力を発揮する事は出来ません。

路上に横たわる巨猿の背に遠ざかり、群衆に埋もれていくデナムの背中を見ながら、観客は改めて気付かされます。野獣を殺したのは美女ではなく、あの男に他ならない。彼と彼の衝動が秘境を暴き、王を捉え、異国の地で憤死させる事態を引き起こしたのだ、と。

同時に聡明な観客ならば気付くでしょう。彼の衝動はまた孤高の王と餓死寸前のボードヴィル芸人を引き合わせる結果にもなったのだと。髑髏島の王が孤独のまま死に、マンハッタンでは有望な女優の芽が潰される結末を、デナムの向こう見ずな"冒険"が回避する結果となった事もまた事実です。

いずれ世界は「1933年」を終え、未知の海域も知られざる秘境もその不在を証明される事になります。その結果人々の意識は、丁度2005年の我々同様、世界の持つ「不思議」を許容し難いレベルに引き上げられてしまうでしょう。髑髏島の巨猿は、映画の始まる前から予め「失われる」事が決定づけられた存在なのでした。

無謀な映画監督カール・デナムの蛮行は、結果としてそうした存在に最後の輝きを与え、その存在に相応しい結末を提供する結果となりました。いわばデナムは「失われるべきものを、それに相応しい形で失わせるため」に形作られた人物でした。だからこそ、彼は巨猿の死と共にその存在理由を無くし、埋没して行かざるを得なかったのでしょう。

斯くてP.ジャクソン監督は、「1933年の映画を2005年にリメイクする」事で「1933年の傑作が2005年には成立しない」事を証明し、しかも「2005年の傑作をひとつ上梓する」という離れ業を演じてのけました。それはジャクソン監督の過剰な思い入れと執着が成し遂げた成果であり、同時に自らの過剰さと思い入れの強さを強く自覚できたが故に、映画が破綻する事から回避できた所以でもあるでしょう。21世紀のカール・デナムは、自らが何を傷つけ何を失ってしまうかを強く自覚し、それを回避する知恵も示してくれました。1933年版『キング・コング』を愛する観客にとっては、それは何にも増して最良の"伝承"となるでしょう。

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