『ミュンヘン』
オスカーへの欲目やサプライズを提供することへの欲求から離れ、ただ物語る事だけにスピルバーグが注力するとどれほどの傑作が出来上がるか、その現時点での証明が本作『ミュンヘン』です。陰惨な歴史を題材に彼は、その演出力を圧倒的な臨場感と徹底した迫真性に振り向け、驚く程硬質で重層的な物語を仕上げてくれました。
ミュンヘン・オリンピック村襲撃とその報復は、単にアラブとイスラエルの対立で片付けられる物ではありません。それは主張や信条はどこまで手段を正当化するものか、そして正統化された手段はその目的を達するにどれほどの犠牲を払うのかという問いを常にはらんでいます。
事件当時誰もが忘れてしまっていたその命題を、スピルバーグ監督は事件とその後を丹念に"再現"する事で再び炙り出します。ドキュメンタリータッチの再現ドラマ調に始まるテロと報復の顛末は、単に時系列を追い直すだけでも先の見えないいたちごっこの虚しさを観客に想起させるには充分。その上でスピルバーグ監督はその中心に"無自覚にいたちごっこに飛び込んだ男"アフナーを置き、ミッションの過程で彼が感じる焦燥・恐怖・無力感を観客に追体験させる事で、観客それぞれに"報復の連鎖"に対する疑念を呼び起こさせようとしたものの様です。
だからこの映画では、観客はアフナーと彼のタスクチームに寄り添い、先の見えないミッションに"参加"する事を強いられます。アフナーがチームの体裁を整え、軌道に乗せ、後には完全に"世界規模で展開される謀略と報復のゲーム"の駒として取り込まれてしまう様と、その凝縮版とも言えるオリンピック村襲撃事件を併置する事で、最終的に観客はその無意味さと虚しさを明晰に読み取る事になります。
アフナーがチームを任された当初、それは単なる「報復」でしかありません。惨劇を指揮した張本人を探し出し"始末"する事で、惨劇の清算を行う以上の何もアフナーも観客も期待せず、だからこそアフナーが回想する選手団襲撃に登場するアラブ人テロリスト達は、凡百のアクション映画に登場する"悪役"に準ずる存在として描かれます。欧州に向かう機上でアフナーが想像する"敵"は、単なる倒すべき悪者の範疇に収まっています。
2度目の回想は事態が進行し、アフナー達が彼等の仕事を軌道に乗せた後。一度としてまともに機能しない爆弾に手こずらされつつも、順調にターゲットを始末して来たアフナーが、自分達が過去から連綿と続いて来た"ゲーム"のルールに従って動く単なる駒だと気付いた時に登場します。
そこに登場するテロリスト達は、既に単なる悪役の立場を逸脱し始めています。倒すべき敵もまた大義と信念を持ち、それに殉じようとしている事を知識ではなく実感として知ってしまったアフナーにとって、依然として彼等は敵ではありながら、同時に自分達と同じゲームに参加している別の駒でしかないとの認識がそこには存在します。
それ故、回想に登場する彼等は殺戮者としてではなく、ひとつのミッションを過たず果たそうとするプレイヤーとして描かれます。明らかにアフナーは彼等の姿に、別種のミッションを遂行中の自身を重ね合わせ始めているのです。
彼我の違いが殉じる大義や信念の差にしか存在せず、結果が同じ殺戮として顕れるのならば、報復とそれに対する更なる報復の連鎖に終わりはありません。ターゲットを始末しても必ずその後任は登場し、今度は自分に対して「報復」を仕掛けて来る。大義の為に犠牲者が出続ける状況には何の変化もありません。
ゲームの進行に従って(当然の帰結として)手持ちの駒を次々と失い、遠からず自身が「失われる駒」となる事が明らかになった時点において、アフナーは彼と彼のチーム、「黒い九月」のメンバー、様々な略語で呼ばれる様々な組織とその支援組織の全てが、ひとしなみに「殺戮によって事態を解決する者」である事を実感したのでしょう。
そして物語は、スピルバーグ監督が『プライベート・ライアン』で提議した主題に再び立ち返る事になります。死者の数的比較だけが優劣を決める歪んだルールの元で行われるゲームに置いて、ゲームの参加者たる我々は、死者の犠牲に適うだけの何かを打ち立てられるのだろうか?
アフナーと共に監督が出した答は当然ながら"否"。死者の集積は事態を何一つ変えず、事態が変わらない事をゲームのプレイヤー達は意にも介さず、駒が尽きる前に補充しゲームを続ける事しか念頭に無い世界には何の展望も開けません。モサドの本部でアフナーに、後にはハドソン河の岸で彼の上司に言わせた拒絶の言葉は、止める事の難しいゲームから、せめて"個"としての自分は逸脱する事を明言した、試合放棄の宣言だったのでしょう。
オリンピック村襲撃事件の、3回目にして最後の回想は、アフナーが任務から外れた後、妻との親密な(筈の)時間の渦中に登場します。その中で登場するテロリスト達は人質の選手達と同様、死の恐怖に怯え自棄に走った「追われる者」でしかありません。そしてそれはそのまま、一度はゲームに参加したが故に、これから後も暗殺の恐怖に怯え続けるアフナー自身の姿でもあるのでした。
ラストカットで世界貿易センタービルを象徴的に登場させたのは、私の知る限りM.スコセッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク』に続き本作が2度目。都市の歴史がそのまま暴力の歴史でもある事を、ある種野蛮な肯定と共に示したスコセッシ監督に対し、スピルバーグ監督は"野蛮な暴力の連鎖"に巻き込まれる人々の象徴として建造中のWTCを示します。
狂ったゲームの参加者は今や、参加の意思を示した者だけに限りません。現代に生きる我々全てが否応無く盤上の駒なのだと、だからこそ個々人がゲームを続けるか否かの意思表示を求められるのだと、スピルバーグは映画の結末に置いて、観客である私達自身に再度問いかけている様です。
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