『ホテル・ルワンダ』
主演級の名の売れた俳優が4人も出演し、平均以上の予算を掛け、何よりも緻密な構成と力強い主題と淀みの無い演出技術を伴った傑作が、単に「暗いから」というだけで公開を見送られる、といった事態が、危うく実際に起きてしてしまう所でした。
余りにも採算を重視しすぎる日本の配給・興行界と、彼等に「暗い」=「売れない」という意識を刷り込んでしまった観客側の双方に対して、実に情けないものを感じますが、その中でも本作の上映を求め、公開にこぎ着けた一握りの人達がいた事に安堵し、心強く思います。
英語圏の観客の為に英語圏の人間が制作した映画として、本作はあくまでも「アフリカに対して西欧が何をしたか/しなかったか」という視点から外れません。ルワンダの人々の生活をリアルに活写しながらも、彼等の声を代弁しようという不遜を犯さない慎ましさから、却ってこの映画が真摯にアフリカの"今"と向き合おうとしている事が伺えます。
代わりに映画が言及するのは、現在アフリカの各地で日常化している、部族間の抗争・闘争やそれに便乗した権力争いの種が、西欧社会がもたらした過去の介入の結果だという事実の再認識。ルワンダの"宗主国の発明したふたつの部族"間で起きた相互の大虐殺はその象徴です。
虐殺の渦中、つかの間の避難所となった観光ホテルとその副支配人、P.ルセサバギナ氏を中心に物語は進みます。彼は別に善性の象徴でも、義憤にかられた正義漢でもありません。無差別殺戮という異常事態に接し、そこから自分と自分の周囲の人々、つまりは自身の"日常"をなんとか維持したいと願う市井の人として終止描かれます。
そうした彼の目を通して描かれた虐殺を通して、観客は否応なく自問する事になります。このホテルはいつまで持ちこたえる事が出来るのだろうか。彼は彼の家族と引き受けた人々を守る事ができるのか。彼を"当然助けるべき"理性と秩序の担い手は一体どこにいるのか。
今助けも呼べず長らえる術も無い、ホテルの内側にある"正常な世界"は果たして本当に正常なのか?外の混乱こそ実は世界の実相なのではないだろうか?我々の"正常な世界"は、どれほど危うい基盤の上に成り立っている幻想なのだろうか。
そうした意識を観客に抱かせる事こそ、この映画の狙いなのでしょう。ルワンダで起きている事は世界のどこでも起こり得る事で、事実今現在もアフリカを初め至る所で(規模の大小は違えど)同様の事態は進行中です。
哀しい事ではありますが、それが人間社会なるものの実態なのでしょう。世界はある日を境に隣人を虐殺し始められる程に野蛮で、そうなった時に理性や常識は何の効力も持たないものなのです。我々にできる事は持てる力を駆使して抗うか、混乱に背を向けて逃走するか、引き蘢って見ない振りを続ける事だけ。
この映画の中で"引き蘢っている"のは、ルセサバギナ氏を始めとしたホテルの人々ではありません。それは彼等をホテルに残したまま、アフリカの外側からテレビ中継を楽しんでいた我々です。ルワンダを"どこか遠くの出来事"として自身から隔離し、自らが鉈を振われる側や振う側に立つ事は無いと盲信し続ける人々に対して、映画『ホテル・ルワンダ』は容赦なく突きつけます。ルワンダにいるのは仮想の"アフリカ人"等ではなく、我々と変わらぬメンタリティを持った"人"である、と。
彼等の捩じ曲げられた義憤と熱狂はいつか我々が体験するかもしれぬものであり、それを他人事と突き放す事は、則ち自らを偽る事に他ならない。アフリカの数百万の人々を手にかけたのがそうした無思慮と無関心の故であると自覚させる為に『ホテル・ルワンダ』が制作されたとするならば、観客である私達は作り手の勇敢さに応え、当然発せられるべき問いを発する必要があるでしょう。則ち、「では我々は何をすべきなのか」、「我々に何が出来ると言うのか」。
それは恐らく、本作の製作者達も答を持ち合わせていない問いかけです。誰かの行動や連帯が安直に実を結ぶ程、世界は単純でも純真でもありません。当時ルワンダに居合わせた人々こそ、最もそれを痛感する人々でしょう。
然し乍ら、どこかに突破口を探り解決の糸口を見つけ出そうとするのも又人というもの。本作の製作者は、人との結びつきの最小単位の中に突破口を見出そうとします。
「国」でも「部族」でもなく、何等かの組織や社会でもなく、自分と"自分が直接触れ合える相手"という意味での「隣人」との結びつき。正面から相手の目を見据え、又自分も見つめ返される間柄に拘り、大事にすること。映画はそうした描写を、全編に渡って愚直なまでに繰り返します。
ルセサバギナ氏と国連軍の少佐、氏と赤十字の職員、彼の家に非難して来た怯える隣人達、そして何よりも家族達。映画はそうした結びつきが如何に美しく如何に貴重かを、集団で襲いかかり個々の区別もつかぬ暴徒と常に対比し続けます。それは氏が取引を行う"悪役"、内通者や政府軍の将校や民兵の扇動者に対しても同様。それが怒りや憎悪であれ、「個対個」としてぶつけ合う事で、個人の顔を見ず従って自身の行為を改めて自覚する事の無い「虐殺」や「諦観」と一線を画せるのではないか、と、映画は主張しているかの様です。
映画の結末は難民キャンプ。序盤で行方不明となった2人の姪と、ホテルからの脱出に成功したルセサバギナ氏一家との再会に至ります。ここでも映画は「個」に拘りその繋がりを捨てまいとする意志と、それが報われる事もあると言う希望を示し、同時に最早修復する術の無い繋がりを暗示しつつ終わります。本作の指し示したものが、今現在も世界各国で起きている"直視する事を恐れる余りの惨劇"から何かを守る力となるか否かは、本作を観た我々一人一人が答を出すべき問いなのでしょう。
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Comments
olddogさん、こんにちは。
配給・興行界と観客に対して抱いた情けない思いは僕も同じでしたが、やはり冒頭に置くほうが強く出ますね。拙日誌でも末尾で言及しておりますが、節操なく映画に漬かっているとはいえ、それなりに自ら“選んで”観ている映画愛好者の誰しもが思うことですよねー。
個と集団についてお書きになっているとこも共感しきりでした。集団性の問題というのは、この映画の公開やヒットの件にも繋がる部分を含んでいるわけですが、勿論それに限らず、何事につけ日本では、とりわけ要点とも言うべき事柄ですよね。
Posted by: ヤマ | May 01, 2006 08:12 AM
ヤマさん、こんにちは。olddogこと杉山です。
もし『ホテル・ルワンダ』が普通に公開されていた場合、残念乍ら興行的に「コケていた」のは間違いの無い所でしょう。ヤマさんの日誌にも書かれている通り、一旦の公開見送り→ネット上での公開要望→話題性を増しての公開・ヒットという流れは、劇中の政府軍将軍とフツ族民兵の間で行われたマッチポンプにそのまま重なる力学で出来上がった物であり、手放しで賞賛する以前に(殊にこの映画に何かを見出した観客としては)考えねばならない事項も多々あると思います。
公開運動とその顛末については、勿論未公開になりかけた映画が公開された事を素直に喜び、公開に尽力された方々には感謝の念を抱いていますが、それと共に「本来公開されてしかるべき内実を伴った作品が、つつがなく公開される状況」に今は無い事、そうした状況を招いたのが観客である私達自身である事、そしてそのような状況を打開する為に、個々の観客がどのように映画と接して行くかを意識し続ける事もまた、忘れるべきでない事だと思っています。
Posted by: olddog | May 01, 2006 08:40 PM
あれ?
昨夜、長々とこちらにコメントしたんですが。。反映されてない・・・アップできなかったんだろうか・・すみません。
Posted by: ミノ | May 05, 2006 11:06 AM
あ、わかりました。
暗号、入れてませんでした。
長々と書いたのに消えてしもた・・え~ん
また気を取り直して来ます。
Posted by: ミノ | May 05, 2006 11:07 AM
折角来て頂いたのにすいません。
簡略版でも結構ですので、また気が向かれましたら何か書いて頂けると嬉しく思います。
Posted by: olddog | May 05, 2006 12:57 PM
えっと、長々と書いたことも、意見に一貫性がないので今日書くとまた違うこと書いてるかも・・
こんばんわ。ミノです
映画って、描き手と受け手があって、初めて成立するものであり、受け取った側にとっては、受け取ってしまったらもう自分のモノでいいと思うんですけど、私にとってはこの映画対自分自身って、拮抗できてないんですよね。olddogさんは十分に受け取ってはると思うんですけど・・
私は多分、こういう内容が、NHKの特集なんかで見かけたらすぐにチャンネル変えるような人間ですし、そんな人間でもこの映画を最後まできちんと見れたのって、一重に劇場鑑賞ってことと、この映画がきっちり面白いってことだったなあと思います。ジェットコースタームービーの如く、ドキドキハラハラしてみてました。逆にそういう面白さがなかったら、テーマの真摯さだけではついていけなかったと思うんです。
自分にとって、他人事ではない、という気持ちと、かといって、リアルな地続き感があるかというと、微妙な点とか・・すごく複雑でしたねえ。
Posted by: ミノ | May 05, 2006 11:22 PM
ミノさん、こんにちは。杉山です。
催促してしまって申し訳ありませんでした。
当時のルワンダの惨状そのものを前に「拮抗できる」日本人と言うのは、その時その場にいた人だけなのだと思います。勿論私も含めて、劇場で『ホテル・ルワンダ』を鑑賞した人々というのは、結局劇中のTVリポーターの言う如く、「その後ディナーを楽しむ人々」と立場上は一緒なのですから。
(身も蓋もない事を言ってしまえば、)映画は"所詮映画"。作り手であれ受け手であれ、そこに参加したからと言って世界のなにがしかを変えてしまう程の力は持っていません。観客として映画を観る以上、それは弁えておくべきものなのだと私は思います。
では映画に何が出来るのか、というと、やはりそれは「物語」を伝える事なのでしょう。生々しい「現実」なるものの体裁を整え、ある種規格化された形で提示する事で、咀嚼し易いものとして受け手に届けるのが「物語」の効用のひとつです。
『ホテル・ルワンダ』はまず一級のサスペンス映画として提示され、その中に無視できぬ形で現代アフリカの諸事情に言及しています。公開運動が一区切りついた今も尚、本作が一定の動員を得ている事は、そうした映画自体の"魅力"がメッセージを後押しした結果なのでしょう。
結果、観客としての私達は、提示された「物語」を自身の体験と照らし合わせ、パーソナルな形で受容する事になります。(ミノさんの言われる「描き手と受け手があって、初めて成立するもの」というのは、その事を指しているものと思いますが・・・)
その時、少しでも「ルワンダで起きた事はここでも起こりうる」という感慨を持てるのなら、たぶんこの映画の製作者達は満足してくれるのではないか、と私は思います。物語はリアリティをある程度まで抽象の衣に包んで提示するものですから、ミノさんがその衣の内側から「他人事ではない」という一言を持ち帰った時点で、充分に"映画"とは「拮抗している」のではないでしょうか。
Posted by: olddog | May 06, 2006 10:27 AM
olddogさん、こんばんわ。ミノです。
「拮抗する」の、意味を私は、olddogさんのように、きちんとレビューという形で、「その映画に返す言葉」を持つ、と思っていたのですね。感覚的なものだけでなく、論理としてつかむ、というか。それがないと「なんとなく・・」しかわかってないような気がして仕方なかったのですが、なるほどおっしゃる通りそういうものではないと思えました。ありがとうございます。
「感じる」ことが大事であるということですよね。
>やはりそれは「物語」を伝える事なのでしょう。生々しい>>「現実」なるものの体裁を整え、ある種規格化された形で提示>する事で、咀嚼し易いものとして受け手に届けるのが「物>語」の効用のひとつです
私の素朴な思いとして、「人は何故物語を求めるのか」というのがあります。例えば、私の5歳の娘も、寝る前に絵本を読んでとせがみますし、なんせ物語を求めるんです。大人の映画ってのもそういうものの延長ですよね。
じゃあ何故、現実じゃあいけないのか?物語って、人生の捏造っていうか、つまりは現実の模倣のようなもの?
とか色々思ってて、でもやはり、物語という形でしか伝えられないものも、存在して、それが「咀嚼し易いものとして受け手に届ける」物語が求めるものなのかなあ・・と。
もう一つの現実を映し出す物語を眺めることで、人はまた、現実を見るもう一つのフィルターみたいなモノを手にすることになるのでしょうか。
Posted by: ミノ | May 08, 2006 11:17 PM
こんにちは、杉山です。
私の小理屈が映画を「論理として」掴み得ているかと言えば到底そのようなものでもなく、結局は私個人の印象を小難しい言葉に置き換えているだけの事ではあります。
やはり映画や音楽の様なものに接する際には、接したその時に"なんとなく感じた事"を最優先するのが、受け手にとって最も滋養となる鑑賞の仕方なのではないでしょうか。
前回書いた事と矛盾する様ですが、私は作られた物語と言えども、現実世界とイーブンの重みと価値を持つものだと、半ば本気で信じています。物語に接する事は現実世界には影響を及ぼさないけれども、接した誰かの「世界に対する視線」を一変してしまう程の力を発揮する事もあります。結局それは、受け手にとっての世界を変えてしまった事と同義なのではないかと。
・・・「現実を見るもうひとつのフィルター」という言葉を小難しく書くとこうなります、という例の様になってしまいましたが^^;
お子さんが物語を強く求めるのも、そうした力を物語が持っている為かもしれません。子供にとっては自分の外側に広がる膨大な空白地帯を埋めるものならばなんでも歓迎すべきもので、そこに収まるのが現実の事物であろうと想像上の物語であろうと、世界を広げ豊かにする為のパーツである事に変わりはないのでしょう。
これも勝手な印象になりますが、特に想像力の豊かな子供のうちは、その想像力を刺激してくれる多彩な物語に接する事ができる、というのは幸福な事だと思います。
Posted by: olddog | May 09, 2006 06:19 AM
olddogさん こんばんわ。
>接した誰かの「世界に対する視線」を一変してしまう程の力>を発揮する事もあります
これは、そうですね。私も実感があります。
5年ほど前ですが、私生活で色々と困難があった時期に見た映画で、冒頭で、青空を背景に子供がジャンプするシーンがあって、私はその青空がいまだに、ふとした機会に、脳裏に、ホンモノの青空のように浮かぶことがあるのです。だから、私の心の中ではまさに現実とイーブンなのですよ。
>子供にとっては自分の外側に広がる膨大な空白地帯を埋める>ものならばなんでも歓迎すべきもので、そこに収まるのが現実>の事物であろうと想像上の物語であろうと、世界を広げ豊か>にする為のパーツである事に変わりはないのでしょう。
なるほど・・大人以上に、もっと直接的に、現実と物語がイーブンなのですね。ついつい親は「どうせ流し込むなら善きモノを・・」と、教育的に走り勝ちなんですが。(笑)
そう思うと、私の子供が経験する寝物語って、心の中に書き込まれていくという重さにおいて、とても大事なものですね。体のことは見えるのですが、心の中は見えないので、とても貴重なご意見を頂いて、嬉しいです。
Posted by: ミノ | May 10, 2006 11:03 PM
>そう思うと、私の子供が経験する寝物語って、
>心の中に書き込まれていくという重さにおいて、
>とても大事なものですね。
たぶんその事も、日々子供の成長を眺めている親御さんには、言葉にはならずとも「実感利として」自明な事なのだとは思いますが。
私の子供時代は読む本は自分で漁らなければならなかったので、ミノさんという良きガイドのいるお子さんは羨ましいです。
映画の何気ない場面が自分の日常とシンクロする時の醍醐味というのは得難いものがありますね。もし宜しければ、その時の映画のタイトルを教えて頂けると嬉しく思います。
Posted by: olddog | May 11, 2006 05:15 AM
>私の子供時代は読む本は自分で漁らなければならなかったの>で、ミノさんという良きガイドのいるお子さんは羨ましいで>
>す。
おっ、そうなのですか。
でも審美眼が養えるという意味においては、それはよかったかもしれませんよ?
子供って、図書室の貸し出しなんかで、毎週毎週同じ本を借りるんですよね。なんかこう、繰り返し確認する快感なんでしょうかね。そのへんが、イマイチ理解出来ません。(笑)
私の青空ムービーは、「点子ちゃんとアントン」です。
ご覧になりました?カロリーヌ・リンク監督って、好きですわ。
Posted by: ミノ | May 11, 2006 09:19 PM
> 子供って、図書室の貸し出しなんかで、毎週毎週同じ本を
> 借りるんですよね。なんかこう、繰り返し確認する快感
> なんでしょうかね。
気に入った映画に通い詰める私にはなんとなく共感できるような(笑)
気取った言い方をすれば、「新しく知った世界を隅々まで取り込む」感覚とでも言うのでしょうか。
そればかりではやはり進歩も生まれないもので、やはりガイド役は必要な様です。
『点子ちゃんとアントン』は未見の映画です。リンク監督作品で観たのは『ビヨンド・サイレンス』一本きり。あの映画は優しい良い映画でした。教えていただきありがとう御座います。
Posted by: olddog | May 12, 2006 11:09 PM