« 『オリバー・ツイスト』 | Main | 『ジャーヘッド』 »

March 04, 2006

『アメリカ、家族のいる風景』

バーの壁に貼られたハワード・スペンス出世作のポスター図柄が、呆れる程にC.イーストウッドの『ペイルライダー』のそれとそっくりなのは、果たして意図したものなのでしょうか。銀幕に姿を見せる度に、何時の時代を舞台としていても常にカウボーイの佇まいを見せてくれたサム・シェパード、満を持してのヴェンダース映画主演作は、やはり時代にそぐわない西部の男として登場します。

とはいえそれは彼が映画俳優の役割を与えられている事から見る通り、虚像としてのカウボーイ像でしかありません。本作『アメリカ、家族のいる風景』は、その虚を暴く過程を軸として進んでいく物語です。

西部の街々に想い人を残し去っていくアウトローの姿は、西部劇の神話的側面を象徴する物のひとつです。しかしアウトローのシルエットを最後に幕を降ろす映画とは違い、現実の世界で人々は常に「その後の人生」に対処していかねばなりません。それはアウトローの役回りを振られた者にとっても同様です。

美しい思い出を残し去った後の「アウトロー気取りの只の映画俳優」ハワード・スペンス、放蕩三昧の日々で人生の大半を無駄遣いした彼に、そのキャリアも終幕に近づいた折、無為に過ごした年月を清算すべき時が巡って来ます。本物のアウトローの様に"去った後"の不毛と孤独を受け入れる覚悟も無く、後に置き去りにした人々への責任を果たす力も非難を受け入れる度量も無い彼は、ささやかな逃亡劇の果てに、その事実を逐一眼前に突きつけられていく事になります。

かつて置き去りにした女とはもはや以前の関係を維持できる筈も無く、存在すら知らなかった娘や息子にはかける言葉すらもみつからず、美しい記憶に彩られた街に戻ってみても所詮彼は「余所者」でしかあり得ない。しかも彼が過ごして来た不毛な年月が、その年月の中で彼が果たすべき「役割」を完遂させる為に、冷徹に彼を追い続ける。ハワード・スペンスの短期間の逃亡は、今更彼が逃亡して何を探そうと、所詮「何もかもが遅すぎた」事を再発見する為の旅として完結する事になります。

そうしたスペンスの道程を、ヴェンダースとシェパードの共同作業は克明に、しかし常にそこに少々のユーモアと暖かさを込めて暴き出します。スペンスは愚者ではありましたが、それは決して"悪"と見なされる類のものではなく、一度彼が己の愚かさを認識した瞬間に、多くの人が否応無く持つ愚かしさとの共感を以て語られるものへと変化しています。

それはハリウッドの歴史の中で飾り立てられたアウトローの虚像が現実には決して存在し得ない事への哀訴と、それでもアウトローの立場に置かれた者への共感だけは失うまいとする、精一杯の弁護の姿勢の様に思えました。

ヴェンダースの作品には必ず、劇中で進行する自体を鳥瞰し、冷静に見据え続ける監督の分身が登場します。作品により時に主役、時に脇役として現れるその役柄は、今回は保険会社の調査員サターとして、終止スペンスの数歩後を追い、彼の足跡と変化、彼が周囲に及ぼした影響を「検証」していきます。

映画の終幕、共に撮影に戻るサターとスペンスが車中で交わす会話は、まるでヴェンダース自身とシェパード自身の対話の様。「何が起ころうと世界の愚かしさは変わらない」と呟くサターに対し小さく頷くだけのスペンスは、しかし世界の最小単位、個人の意識と個人の"繋がり"のレベルでは、常にめまぐるしい変化が起き続けている事を学んだばかりです。2人の最終的な合意の言葉「我々には燃料が必要だ」が発せられる時、それぞれが思う"燃料"とは、一体何を指すものなのでしょうか。

そのようにして映画は、アウトローの虚飾をはぎ取られた男が、虚飾の下の自身を再認識し、それが可能とする筈だった世界の有り様をつかの間思い描く過程を、ごくささやかに描き出しました。テクニカラーの世界の更に奥、最終的にシルエットとなって消えて行くスペンスの姿と、彼の子供達が揃って"智慧の境界"を超えて行く姿が併置されるラストシーンは、虚と実それぞれの「アメリカ」に対して、そこを去る前にヴェンダースが最後に託した希望の様なものだったのかも知れません。

|

« 『オリバー・ツイスト』 | Main | 『ジャーヘッド』 »

Comments

The comments to this entry are closed.

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 『アメリカ、家族のいる風景』:

« 『オリバー・ツイスト』 | Main | 『ジャーヘッド』 »