『クラッシュ』
映画館で『ミリオンダラー・ベイビー』を見そびれたのは昨年の私の失態のひとつでしたが、それはどうやら名監督の熟練のみならず、優れた脚本家が映画界に躍り出る瞬間を見逃した事でもあった様です。TV畑出身のP.ハギスは、続く初映画監督作品となる本作を、「人と人との結びつき」をこの上無く繊細に扱った寓話として届けてくれました。
舞台となるLAに相応しく、この映画で俎上に上がるのはありとあらゆる差別感情。人種間の対立や差別だけでなく、貧者と富裕者、孤独な者と満たされた者、差別を恥じる者がひた隠しにしている、または自身も知らず心の奥底に眠っている差別感情までも、映画は丹念に掘り起こし陳列していきます。
人種のサラダボウルを標榜してみても白人優位の社会構造に変化は無く、着実に増加するアフリカ系だけでなく世界各国からの移民や移住者がそれぞれのルーツを否応無く意識させられ、それが又他のルーツを持つものとの軋轢を呼び、遅ればせながらもそれらを緩和しようとした試みが更なる対立を産み出してしまう。
タイトルの"Crash"は、単に自動車事故を意味するものではなく、そのような様々な軋轢の元にある人々の、噴出した怒りが生む対立と衝突全てを指したものの様です。心の裡に「自分の属する世界」と「その世界の外から来た他者」を作り出した者こそが、衝突する相手とその理由を見出せる者である、という事なのでしょう。
映画は、そうした衝突のバリエーションを様々な人種間・階級間の諍いをサンプルとして列記して行きます。順次示されていくそれらを見ながら、私はふたつの事に気付きました。
ひとつは、そこで起こる"衝突"は、実は差別感情が起こしたものではない、という事。警官が行う理不尽な身体検査は「報われなかった者」が「報われた者」に対して抱く逆恨みの故であり、銃砲店の店主がアラブ系に送る蔑視の視線は"911ショック"の裏返し。言葉が通じない移民のもどかしさはそのまま言葉を理解しない相手への怒りとなり、検事局の人々は統計情報を安直に差別感情にすり替え、同様に"入れ墨を持つヒスパニック"は、ひとしなみに犯罪者予備軍として扱われます。
この映画の中で起こる、一見差別感情が起こしていると見せる様々な衝突は、実は当事者たる彼等が抱いている様々な怒りや恐怖や困惑を、差別というネガティブな言い訳を通して表面化したものなのでした。それは入り口ではなく出口にあたるものなのです。
気付いたもうひとつの事は、そのようにして起こる"衝突"を、どうやらP.ハギス監督は非難も攻撃もする気がない、という事。むしろ彼の物語の中では、"衝突"が遠因となって事態が好転する事すらあるのです。
銃砲店での不愉快な遣り取りがなければペルシャ人一家が空砲を持ち帰る事も無く、頑迷な警官の身体検査に若い同僚が立ち会わなければ、翌日再会したTVディレクターの怒りを理解する事も無かったでしょう。当然それが逆に最悪の結果を生む事もまた映画は示しますが、少なくとも彼等は衝突の過程で何かを知り、知った何かを自らの日常に組み込む知恵を見せてくれます。
ハギス監督は、衝突する事を少なくとも「眼前の相手と意思疎通しようとする行為」とみなそうとしたものの様です。それが如何程の不快感と怒りを呼び起こそうとも、少なくともその当事者達は、怒りを通して相手に自らの意を伝えようとしている事は間違いなく、またそれが如何に偏向したフィルターを抜けて来る声であろうと、彼等は相手が伝えようとする何かを聞き取ろうとする意志を示します。
衝突の絶えない世界においては、衝突の中からこそ結びつきを掬い出して行く必要があり、それを拒否する事は則ち、人々の怒りと偏向をそのまま放置する事に他ならない。それが差別と偏見の一大バザールを潜り抜けた末に、監督の辿り着いた境地なのではないかと思われます。
結果の良し悪しを棚上げにして「衝突」を許容するという事は、同様に「衝突」を回避する臆病さや小賢しさに否を唱える、という事でもあります。警官と妻の諍いを丸く収めようとした夫が、町外れで拾った若者を「不審な黒人」のステロタイプに当て嵌めて見てしまった若い警官が、恐怖心から家中の全てを家から閉め出してしまった若妻が、それぞれ陥る苦難は、相手を"見ようとしない"事による不幸の直接的な寓意。差別の最も危険な側面は、それが攻撃性の発露である事ではなく、それが相手を拒絶し、交流を阻害する事にある、と監督は一連のエピソードで語ります。
阻害と拒絶が不幸を招く、映画の締め括りにして最悪のエピソードは、同じ人種の、しかも肉親の間で起こります。実在する息子を見ようとせず願望の中の息子とだけ対話する母親の姿は、私達にある種絶望的な感慨を抱かせます。例え混血に次ぐ混血を繰り返し、格差と言う格差を全て取り払い、人々が互いの立場に何の差異を見出せなくなる日が来たとしても、人は必ず他者との間に差異を"作り出し"、誰かを非難し罵る事を止めないのでしょう。弟が死んだ責任を兄に押し被せる母親は、その最悪のサンプルとして現れます。
しかし乍ら、"クラッシュ"の絶えない世界は、それが巡り巡って誰かを救う機会を生む事もある、とハギス監督は最後に強調します。理不尽な偏見や差別を生み出す心の動きは、同時に"無敵の透明マントが最愛の人を守る"ファンタジーをも生み出す事があるのです。前者が実現してしまう世界ならば、時に後者が実現してしまう事に、なんの不思議があるでしょうか。
人が誰かと結びつこうとする意志がある限り、それが例え衝突し合う事であっても、いつも事態が悪くなるとは限らない。様々なグループに属する様々な人々が巡り巡って、幾つかの悲劇と幾つかの奇跡を成し遂げる二日間を通して、P.ハギス監督が描き出そうとしたのは、結局はそういう事の様な気がします。それを単なる慰めと取り、寓話を寓話のままにしておくか否かは、観客それぞれが、それぞれの人生でどれだけの「衝突」を繰り返して来たかによって決まって来るのでしょう。
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Posted by: camper hire | February 20, 2015 08:46 PM