『ブロークバック・マウンテン』
アン・リー監督がやはり同性愛のカップルと周囲との断絶を扱った『ウェディング・バンケット』は、私には駄目な映画でした。人の醜悪さを醜悪なままにさらけ出し、何の解釈も主張も加えずに終わらせてしまう事に大きな疑問を持ったものです。15年を経て再び繰り返される、"同性愛の隠蔽が周囲の人々をどこまでも不幸にしていく顛末"は、しかし私に全く別種の印象を届けてくれました。
もしかすると、かつてのカウボーイの時代には、ジャック・ツイストとイニス・デルマーのような間柄は、定期的に生まれていたのかも知れません。極端に女性が少ない環境と、互いを知り合わねば生き抜く事も難しい自然の中では、共感と同士愛がときに性差を超えてしまう事も、必ずしも奇異な事では無いのではないか。
典型的マルボロカントリーとして描かれるブロークバック・マウンテンの渓谷と、そこに溶け込んでいるカウボーイ姿の二人を見ながら、そのような感慨を抱きました。それほどに二人の様子は、自然な情愛を感じさせるものでした。
そうした二人が、再びマイノリティ特有の奇異な印象を身に纏い始めるのは、里に降り「普通の生活」に取り込まれ始めてから。殊にブロークバック・マウンテンに入る前は自身にゲイの素養がある事すら気がついていなかったデルマーにそれは顕著です。彼は自身の素養とツイストに対する思いを「禁忌」として、表立っては殊更に家庭的で男らしいカウボーイ足らんと務める事になります。
程度の差こそあれ里に降りたツイストにしてもそれは同様。より自身の性向に自覚的な彼は、生きて行く為の隠れ蓑として家庭を作り、ロデオの延長の如くに人生を捉え、「乗りこなす」事に汲々とし始めるのです。
それは平板に描けば、単なる「社会に認められないホモセクシャルの苦悩」でしかなかったかもしれません。しかし映画『ブロークバック・マウンテン』が主題に選んだのは社会ではなく、社会の拒否の元にそれでも成就されるべき"思い"の方でした。ツイストとデルマーが山から持ち帰ったのは単なる特異な経験等ではなく、ただ互いを思いやる感情、- 普通我々が「愛」という言葉に還元するものの、最も純粋な形のものだったのだと、映画は全編を通して主張し続けます。
かくて、1960年代から80年代のアメリカ中西部を舞台にしたふたりのホモセクシャルの顛末は、1990年代のNYの一夜、偽装された結婚披露宴でふたりのホモセクシャルが見せた狂乱と愛憎劇との近似を見せる事になります。両者に共通するのは、ふたりの思慕が純粋であればある程、ふたりの周囲の人々を際限なく傷つけて行く悪循環。
ツイストとデルマーの間だけで完結している世界は、しかし「彼等の外の世界」が容認してくれない世界であり、だからこそ彼我を両立させるには嘘と偽りを通すしか道はありません。そして当然ながら、嘘や偽りは必ずそれに触れる誰かを傷つけていく事になります。
この場合は、ツイストとデルマーそれぞれが持った家族達が、直接の被害者という事になるでしょう。ホモセクシャルという要素を取り払えば、結局のところ彼等は「不倫の末に家庭を省みず、崩壊させしまった」男達です。彼等を弁護する何者も、現実社会も映画の中の世界も持ち得ません。
『ウェディング・バンケット』の時にはリー監督は、それを「仕方の無いもの」として、周囲の者に一方的な理解を求めるのみで終わりました。『ブロークバック・マウンテン』では、リー監督はデルマーの姿を通して、その先に向かうべき立ち位置があることを控えめに主張します。
ツイストの両親と会い「息子が話していた"デルマーという名の男"」として彼等の前に立つデルマーは、マイノリティ特有の慎重さを通しつつも、自身を偽る事を放棄します。彼は終止両親の前では、「ジャックが認めた男」でありつづけようとしていました。父親の胸襟を開いたのは彼のその態度でしょう。
同時にまた、彼はひとりの「父親」として、自身の娘と向き合おうとも努めます。ツイストとの逢瀬だけを頼みに生き続けて来た彼は、ツイストを失った後に初めて、"それ以外"の人生にも又慈しむべき者達が存在していた事に気付いたのでしょう。
それが如何に純粋であったとはいえ、「愛」なるものは対象の全てを独占し、自分の全てを捧げ続けられる様には出来ていません。それが許されるのは、自分と相手しか存在しない世界、「ブロークバック・マウンテンの山中」でしか認められない世界なのでしょう。現実社会にもはやマルボロカントリーは存在せず、そこで培われたであろう純粋な思慕も「社会」との折り合いを付ける事を当然求められます。
いたずらにブロークバック・マウンテンの幻影を追い求め続けたイニス・デルマーが、遂にそれを記憶の中の特別な場所に封印し、世界と向き合うだけの視座を持ち得た事で、映画『ブロークバック・マウンテン』は凡百の「身勝手な愛が人を不幸にする」物語群から脱却し、ホモセクシャルであるとないとに関わらず、人々に共感を持って受け入れられる物語にまで昇華したものと思います。そしてその事はまた、映画を純粋にツイストとデルマーの「悲恋の物語」として、また悲恋の周辺に置かれた人々の「苦難を乗り越える物語」としても結実させる事になりました。
強烈な感情というものはいつでも物語を動かす最良の原動力ですが、時に物語を感情の推移に任せ、何の方向性も示さずに投げ出してしまう作家が現れます。『ウェディング・バンケット』の時には私はアン・リー監督をそうした作家のひとりと認識していましたが、後に続く幾つもの映画で彼は、決して舵取りを怠らない監督である事を証明してくれました。その上で今回上梓された『ブロークバック・マウンテン』を、だから私は、彼が以前手がけた題材を彼に相応しい話術で語り直した"再話"として観る事となりました。
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Comments
olddog先生、お今晩は。
遂に拝読出来ました。禁煙しているからかも知れないんですが、頭の
中が落ち着かない状態にあります。
禁断症状が落ち着いたらまた立ち寄らせて頂きます。
どうも、感想が纏まらないんですよ(^^;
Posted by: 大倉 里司 | April 03, 2006 09:27 PM
大倉さん、こんにちは。コメント有り難うございます。
この種の映画、同性愛には関係無く、長い時間軸と濃密な感情の推移を描いた作品に関しては、感想を書いた後なんとなく大倉さんの審査を固唾を飲んで待たされる気分にさせられます(笑)
大倉さんの感想も拝見しましたが、やはり「ブロークバック・マウンテンの季節」をキーとして捉えてくれていた事が嬉しく思えました。単なる人への思慕ではなく、人と自分とを共に内包する"一時期"への思慕がこの映画を普遍化している鍵ですね。
禁煙は成功すれば健康には最良の選択ですが、渦中はかなり身体に負担もかけるとか。御自愛の程。
Posted by: olddog | April 03, 2006 10:04 PM
olddog先生、お今晩は。
禁断症状が落ち着いてきております。
さて……本文へのレスなんですが……
ジャックの両親と会うシーンと、アルマJr
のセーターを包み込むシーンなんですが、
一回目観た時に一番印象に残っているシーン
だったりします。(^^;
今考えてみると、幾ら最愛の人だからと言
って両親の元を訪れるのって、かなりの決断
が要ることなんですよねぇ……。
ジャックの母親が慈しむようにシャツを袋に
入れるシーン。イニスが娘に「彼はお前の
事を愛しているのか?」と尋ねるシーン。
それぞれに印象に残っております。
二回目観たときは、「本当の色恋」に専念
して観て仕舞ったんですねぇ。
「お前のせいで俺はこんな風になってしま
った」……と言う叫びから心象光景として
「最も美しかった記憶に戻る」と言う
「大河浪漫の定石」がシッカリと踏まれて
いて一番感動した箇所でありました。
Posted by: 大倉 里司 | April 04, 2006 11:14 PM
大倉さん、こんにちは。
言われてみれば「最も美しかった記憶に戻る」展開と言うのは、確かに定石中の定石ですね。本作では巧妙にも、ブロークバックマウンテンへの憧憬を終盤に入るまでは隠しておいて、ツイストとデルマーの最後の別れの場面で挿入されるフラッシュバックにより、一発で観客に理解させる手法を取っていました。あの転換は鮮やかでした。
ツイストの両親に会うという行為は、デルマーにとっては止むに止まれぬ心情から出たものなのでしょうが、その際に偽らざる自己を携えて行く誠実さを見せてくれた事が私には嬉しかった。ツイスト以外の他者には常に不誠実な男だったデルマーが、ツイストの死後、どこかにしまい込まれていた誠意をようやく見出したという事もまた悲しい話ではあります。
Posted by: olddog | April 05, 2006 12:08 AM