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May 14, 2006

『エミリー・ローズ』

実際に起きたオカルト事件を映画化、と聞くと『悪魔の住む家』の様な作品を思い浮かべてしまいますが、本作はオカルトの比重は驚く程希薄。むしろ徹底してオカルトを殺人や強盗と同じ「事件」の範疇で扱い、法廷の俎上に乗せてしまおうというのが本作『エミリー・ローズ』の面白いところです。

悪魔祓いに失敗した神父に課せられた罪状は「"業務上"過失致死」。決して詐欺でも謀殺でも精神錯乱でも無い所がまず興味深い。それはキリスト教下にある社会の限界なのかもしれませんが、アメリカの法廷はまず、神の代理人という「職業」と、エクソシズムという「業務」を前提として審議を進めるのでした。ときに鼻につくプラグマティズムもここまで徹底すると小気味良い。

映画は本来最も議論の対象となるべき「悪魔の存在」に関してはあっさりと認めた上で、悪魔祓いが妥当な手段だったか否かを、則ち「エミリー・ローズのケースに悪魔が介在していたかどうか」を争点に絞ります。オカルト現象の映像化に関しては常に一人称か伝聞形式で表現し、観客に疑問符を提示し続けながら、同時にそうした現象が「実在する」事に関しては露程も疑わない。

S.デリクソン監督は両者の間を絶妙なバランスで綱渡りしながら、両者を等分に眺め渡せる位置まで観客を引っ張って行く事に成功しました。所謂スプラッター映画出身であると同時にヴェンダースに原作を提供もするといった奇妙な立ち位置のデリクソン監督らしい、絶妙の匙加減が見事。

神の肯定/否定からも司法への疑問からも観客を自由にした映画は、その落ち着き先を「人」の心の有り様に求めます。ムーア神父の判断の妥当性ではなく彼の心境に、エミリー・ローズの症状ではなく彼女が追い求めたものについて、弁護士エリン・ブリューナーによる弁護の成否ではなく、彼女がムーア神父のケースを通じて何を至上とし何に殉じるかを自覚して行く過程を、映画は悪魔による干渉(則ちオカルト映画に必須の恐怖とサスペンス)そっちのけで追い求める事になります。

そこで明らかにされるのは、エミリーの死が結局は「人が"善"を求める心」が積み重なった結果として起きたという事実でした。エミリーも彼女の家族も、そしてまたムーア神父に至るまで、彼女の「"善"を成そう」という意志を核として行動し、そこには疑念も頑迷さも差し挟む余地はありません。一人の不幸な少女と、彼女を救おうとする人々の良心だけが、一連の事件から掬い上げられて行きます。

神父に託されたエミリーの最期の告白は、それを追認するものでした。彼女の言葉はどう解釈しても「若者のストイシズムがもたらした妄想」の域を出ず、終止典型的な緊張病として描かれるエミリーの"症状"と相まって、彼女の霊体験の信憑性に疑問を投げかけます。そして同時にその告白は、エミリーが最期に至るまで純粋に"善"を求め続けていた事を、観客である私達に強烈に訴えかけます。

善を求める意志が報われるには、同じくそれを評価する意志による必要があるでしょう。エリンによる最終弁論で繰り返される「可能性」という言葉は、立証不可能な「悪魔祓いの成功要因」についてではなく、今法廷に立つ彼等が、エミリーの体験ではなくエミリーの意志を採択できるか否か、の可能性を問うている様に思われました。

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Comments

杉山さん、こんにちは。
 陪審員制度に絡めて考えさせられるところのあった作品で、拙日誌でも専らそういうとこについて綴ってますが、期せずして杉山さんも「エミリーの意志を採択できるか否か、の可能性を問うている」とお書きのように、問われているのが専ら裁く側という作品でしたね。
 これなぞは、ホラー・スプラッター物は好みでない僕なぞ、観逃しかねない作品でしたが、そういう作品ではないらしいとの情報をネット知人達から得ることで観逃さずに済んだ映画です。
 「終止典型的な緊張病として描かれるエミリーの"症状"と相まって、彼女の霊体験の信憑性に疑問を投げかけます。」とお書きの部分の加減が僕にとっては絶妙で、「彼女の言葉はどう解釈しても「若者のストイシズムがもたらした妄想」の域を出ず」と断言するのも躊躇われるところがありましたが、事実か妄想かに重きを置かずに、彼女にとっての真実としては(杉山さんの言葉を借れば「意志」なのですが)他ならぬこととして描いていた点がよろしかったですね。
 さればこそ、その他ならぬことをどう受け取り裁くかが問われることになるわけですからねー。

Posted by: ヤマ | May 19, 2006 12:48 PM

ヤマさん、こんにちは。杉山です。コメント有り難うございます。

> 事実か妄想かに重きを置かずに、彼女にとっての真実としては
> (杉山さんの言葉を借れば「意志」なのですが)他ならぬこととして
> 描いていた点がよろしかったですね。

たぶんそれだけ現代社会に、「事実」なるものは余りあてにならないという意識が浸透したのだと思います。事実も見る目によって多様な姿を見せる事が明らかになっている以上、やはり「見る主体」の方に焦点が移るのは妥当な所なのでしょう。

そうした時に、エミリーの事件を見るものたちの良心に主眼を置いた結末は、私にはとても好ましく思われました。
エミリーがそこに奇跡を感じ、「奇跡に接した者として行動した」という事と、それを他者が肯定した(あの量刑への扱いは巧い落としどころですね)事の方が、悪魔の存在よりも大事な「事実」だと映画は断言してくれました。ホラー映画好きな私としては物足りない筈の作品に驚く程の満足感を味わえたのは、そのメッセージに依るものが大きかったのだと思います。

ヤマさんの日誌の方で言及されていた、「京都教育委員会による職員会議での採決禁止通知」の件、日誌を読んで初めて知りましたが、この国においてはさもありなん、という感慨です。人がおしなべて神の下に置かれている国の方が、そうでない国よりも人を尊重する術を知っている、というのも、少々情けなく恥ずかしい話ではあります。

Posted by: olddog | May 20, 2006 12:19 PM

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