『ユナイテッド93』
早朝の東海岸。空には既に数千機の旅客機が飛び交い、各地の航空管制センターもフル稼働で対応する毎日恒例のラッシュアワー。緊張を維持しながらも手慣れた管制官と機長のやりとりが交わされ続ける中に、ひとつだけ返事の返って来ない交信が紛れ込みます。2001年9月11日、全米を震撼させアメリカ以外の全世界を慨嘆させた同時多発テロは、そんなごくささやかな出来事から始まりました。
劇場に出かけ、シートに腰を落ち着けるまでに相当の意思力を必要とした映画でした。これまで見て来た"実録"とは違いリアルタイムで見聞きした事象の映画化であること、その救いの無い結末を熟知している事、そうした"実際にあった悲劇"を部外者が覗き込んで良いものかという葛藤等々。こうした映画には、気楽な観客の立場といえどそれなりの覚悟が必要になります。
観客の愚直な自問に応えるに足る映画を作るには、観客以上に愚直に真摯にアプローチする以外にありません。過去の作品でも描写のリアリズムとその客観性に重きを置き、逆に編集と演出では徹底して情動を煽り立ててきたP.グリーングラス監督は、UA93便の悲劇を描き出すに際して、自身の持ち味を十全に使い切りました。
それはまず、「判明している事実は例外無く映画に採用する」という手法に表れます。93便に乗り合わせた被害者の全ての遺族に取材し、フライトレコーダーと交信記録を余さず劇中で再現し、管制室の主要な人物には役者ではなく本人を起用する。グリーングラス監督はそのようにして、映画における「事実の再現」のレベルを一段も二段も引き上げてしまいました。
これまで観て来た映画の中でも郡を抜いてリアリズムに拘った映像とダイアローグは、実際に飛行機の機内に、または管制室に立ち至っているかの様。それは早朝のフライトを強いられる気疲れと退屈さ、長い一日を仕事場に籠る憂鬱と山積するタスクを前にした重責を肌身に感じさせ、冒頭の「まだ何も起こらない平凡な日常」を、その平凡さの追体験そのものが新鮮に感じられる程。
AA11便ハイジャックの兆候が発見されてからは、緊迫感と混乱の高まりを伝える為に、同じ「リアリティの追求」が振り向けられます。映画は3つの管制室とひとつの防空指令部を頻繁に行き来しながら、矢継ぎ早に情報が発信され、発信した情報が訂正され、訂正された情報が相手に届く前にまた新しい情報が発信され・・・と言った大混乱を、そのまま観客に投げつけてきます。
それは観客に、ある種のトラブルに見舞われた時にはお馴染みの「事実の大洪水」状態を思い起こさせ、それがかつてない規模と速度で起きている事を肌身に感じさせます。グリーングラス監督は3箇所の管制室の風景を微妙に変え、レーダー上の光点と持ち込まれたテレビから流れるCNNの映像、報告と反復のプロセスを頻繁に繰り返す事で、混乱の最中でも観客に対しては必要な情報を遺漏無く届けてくれます。
その集大成が、コンソール上のレーダースクリーンからUA175便の光点が消失し、直後に管制室の窓外に飛行機の機影が認められたと思う間もなく、テレビモニター中のWTCにそれが激突・炎上するまでを途切れなく描いたワンカットでしょう。雑然としたルーティンワークで始まった管制室を描く一連の描写は、この一瞬と、その後の呆然とした各管制室の人々を描き出す一連のカットによって、「実際の出来事とそこに至るまでの"実録"」を緊密に連携させ、同一の世界の中の連続した事象であると観客に納得させる事に成功した様に思います。
グリーングラス監督は一方で、リアリティの集積を単なる「実録再現ドラマ」に終らせない為に、周到に個々の人物達に観客の意識を振り向けます。彼等の仕草、行動、口調の端々から滲む個性と人間性。それらは特にUA93便に乗り込んだ人々から集中的にサンプリングされ、名前を持たない彼等のパーソナリティを、自然にかつ強烈に観客に意識させて行きます。
ぎりぎりで搭乗に間に合った人物がいた事は記録に有るけれど、彼がどんな表情でタラップに駆け込んで来たのかまでは判らない。留守番電話に記録された通話は残っているけれど、その通話の主が見せた落胆と悲しみの表情はどこにも残されていません。それは今となっては推測し補填せざるを得ない情報です。
『ユナイテッド93』は、事実を元にしたフィクションとしては唯一創造可能なその領域に対して、些かも敬意を失う事無く、しかもこの上無く大胆に「推測」を繰り広げます。仕草と口調と風貌を作り上げ、残された言葉の前後に「言葉を生み出したディテール」を付加し、しかもそれら一連を繋げてひとつの機内のドラマとして纏め上げる。その上で、描写のレベルは管制室で見せたのと同様、徹底して"リアル"であり続けます。
そしてそれは機内の乗客に限った話ではありません。UA93便をハイジャックした側、4人のアラブ系テロリスト達に対しても、映画は徹底的にその「ディテール」 = 彼等の熱意、逡巡、恐怖、昂揚を描き出します。その結果、そこにいるのは決してハリウッド的な「悪役」ではなく、ある目的の為に困難な仕事をこなそうとしている脅えた面々となり、観客は安易な"悪者"を映画の中に見出す事ができなくなります。
それが端的に表れているのは、乗客とハイジャック犯がそれぞれに神に祈る場面を連続して捉えた一連の場面でしょう。彼等は同一の神に、互いに全く相容れない事柄について祈りを捧げています。グリーングラス監督は彼等を、その信仰の如何を含めて、完全に等価に扱おうとしています。
グリーングラス監督とこの映画のスタッフ達は、映画化に際して当然用いる事になる「想像/創造の力」を、誰かを断罪し誰かを安心させる為ではなく、どこまでも真摯に「その場にあったであろう事のすべてを、同じ確度で"再現する"」事に使用しているのでした。その真摯さ、誠実さが、判明している「事実」と記録の存在しない「推測」を、同じレベルで同居させる事に成功させています。
終止冷徹に事実を告げて行くことと、積み重なる事実の中から生の情緒を掬い上げる事。リサーチの成果と大胆な推測をそれぞれに駆使する事で、この映画はひとつのはっきりとした主題と主張を兼ね備えた「物語」を組み上げる事に成功しました。
それは一言で表せば、「人はどのような時に"闘う事"を選択するのか」という事にでもなるのでしょうか。UA93便奪取の実行犯達、管制室の人々と迎撃態勢に入った軍人達、そして93便の乗客達のそれぞれが、闘争に対しての選択肢を与えられ、それを選択するまでの逡巡を強いられます。
その中で、唯一、何のエクスキューズも無しに「闘う事」を肯定されているのが、UA93便の乗客達です。彼等は政治や宗教の場で論議されるテロ行為の諾否の結果を斟酌する訳でも無く、悪漢の計画を挫く事を念頭に置いている訳でもありません。彼等はただ、彼等自身の生命を守る為だけに闘争を開始します。
ただ状況を甘受するのではなく、人は与えられた状況に抗うものだ。というのが、グリーングラス監督がUA93便の乗客を通して伝えようとした主張で有る様に、私には思えました。それは視点を広げてみれば93便の乗客達に留まりません。911テロの首謀者にとってそれは政治状況に抗った結果でしょうし、管制室や防空司令部の奮闘もまた然り。世界は世界の構成者それぞれが、それぞれの「闘い」を繰り返す事で出来上がっている。それが端的に表れたのが、2001年9月11日の一連の出来事だったのでしょう。
勿論それは愚かしい事です。911の"闘い"に参加した者は、それぞれに闘う相手とその手段を間違えていました。グリーングラス監督はそこから、UA93便の悲劇という、唯一正しい相手に向けられた正しい闘いをピックアップする事で、何かに抗う事そのものの姿を批判抜きに描き出して見せたのでした。
その他の映画と同様、『ユナイテッド93』でもスタッフ・キャストのクレジットの羅列で映画は終ります。ようやくそこまで到達して、私はこの映画から最後のショックを受ける事になりました。
つい先ほどまで一緒だった、UA93便の中の乗客達。映画の中では名も無き人々だった彼等が、それぞれの「実際の」名前と共にスクロールして行きます。観客である私達はそこで改めて、彼等が個々の名前を持つ実在の人々であったという事実と、その重さを味わう事になります。徹底してディテールに拘り続けながら、ただひとつ「名前」というディテールだけを伏せ続けたグリーングラス監督の演出は、映画本編が全て終了した後に観客を揺さぶる仕掛けとして機能したのでした。
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Comments
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Posted by: click here | August 20, 2015 02:42 AM