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August 19, 2006

『パイレーツ・オブ・カリビアン / デッドマンズ・チェスト』

やはりG.ヴァービンスキー監督の持ち味は、"カートゥーン"を指向した時に最も力を発揮する、と確信できた事が、前作を観て私が一番嬉しく思った部分でした。カリカチチュアライズされたキャラクターの単純明快な行動、迫力ではなくそのアイディアとスピード感で観客を唸らせるアクション演出と、ひとつのアクションが次のアクションの契機となって雪だるま式に膨れ上がって行く(良い意味での)節操のなさは、戦前から1950年代にかけてディズニーやそのライバル達が毎週繰り出してくれた短編アニメーションの世界そのもの。

以前『マウス・ハント』でハンナ=バーベラ調カートゥーンを完璧に実写映像に置き換えて見せたヴァービンスキー監督が、本家ディズニーで同様のアプローチをやってのけたのが、前作『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊達』でした。そうしたアプローチは、戦前のエロール・フリンの時代に多数作られた"海賊映画"というジャンルを、その天真爛漫さをそのままにアクションのスケールだけをグレードアップさせて蘇らせる一助ともなっていたのでした。

今回の『パイレーツ・オブ・カリビアン / デッドマンズ・チェスト』は、前作の純然たる"続き"として始まります。前作で確立されたキャラクターや力関係を何の説明も無く引き継いで物語は始まり、ちょっとした言葉遊びや本筋に絡まない脇の人物達、些細なジョークまで律儀に拾いつつ、ヴァービンスキー監督はプロットを際限なく拡大して行きます。それはまるで前作で膨らむだけ膨らんだ雪だるまを、今回(と次回)で、自壊してしまうまで更に膨らませてみようと決心したかの様。

海賊ジャック・スパロウを狂言廻しに使いつつ主人公ウィリアム・ターナーの成長物語を描き、アトラクション版「カリブの海賊」の構造を擬似的に再現してみせるのも前作同様。2本の映画を通して観てみると、青年が海洋冒険の世界に招かれ独り立ちしていく過程を主軸に据えてこのシリーズが成立している事が良く判ります。

従って前作同様、今回ジャック・スパロウが陥る危機もまた、ターナーを再び海に出すための口実として設定され機能します。ターナーを再びジャックと合流させる為に「死者の宝箱」とそれを示すジャックのコンパスが必要となり、呪いの未だ解けない父親と会わせる為にデイヴィ・ジョーンズを持ち出してくる、といった具合。ジャック・スパロウは徹底して、「胸躍る冒険と人知を超えた脅威とそれらに果敢に挑んで行く快男児達の世界」の紹介者であり、先導者であり続けます。

だから今回描かれる脅威クラーケンは前作の幽霊海賊達にも増して禍々しく、デイヴィ・ジョーンズの契約は必然的に反逆を促し、そしてターナーとエリザベスはそれらに怖じける気配もなく、むしろ嬉々として冒険に飛び込んで行く事になります。

序盤の原住民の島からの脱出場面や、死者の箱を前にした三つ巴の延々と続く剣劇場面の牧歌的とも言える"楽しさ"、クラーケン撃退場面での劇的なスパロウ再登場の格好良さ等、そこにあるのはあくまでも冒険のロマンとカタルシスであり、近年当たり前の様に映画に盛り込まれて来たリアリティや整合性等は、不純物とばかりに潔く排除されてしまっています。

そうする事で『パイレーツ・オブ・カリビアン』は、主人公と観客をロマンチックな冒険の世界に連れ出してくれる良質なジュブナイルとして成立し、ジュブナイルとしては驚く程の豪華さと質の高さを提供してくれていたのでした。

ところが本作『デッドマンズ・チェスト』では、結末にたった15分を残した時点で、"ジュブナイルとしての物語作法"からの離脱が試みられます。本作に見られるエリザベスの裏切りと、それを垣間見るターナーの疑念は、「快男児達の冒険物語」にはこれまで縁の無かったもの。

彼らの冒険は、彼らが単純明快な心理構造を持っているが故に"痛快"で有り続ける、という仕掛けになっていたのですが、エリザベスとターナーの二人は、心理構造のレベルで冒険物語のキャラクターを逸脱してしまいました。彼らが『パイレーツ・オブ・カリビアン』の世界に存続し続ける為には、その世界全体の改変が必要となります。

実のところ、本作の中盤から後半にかけては、その改変作業の為の準備が着々と進められていた様です。気がついてみれば本作が終わった時点では、ノリントンの裏切りにより敵味方の勢力が奇麗に二分されています。即ちノリントンとスワン総督に代表される「統治者」と、スパロウ、ジョーンズ、バルボッサに代表される「海賊(=冒険者)」の側。カリブ海を舞台に気ままな冒険に出かけられていたこれまでの世界を、冒険の舞台そのものの去就を賭けての争いに変化させる為の下地を、本作では行っているのです。そして一方の陣営は、冒険心の象徴とも言えるジャック・スパロウ船長を失ったまま。

ターナーとエリザベスの心理面での「脱皮」は、そうした事態に自覚的になる事と、彼らの世界が失われつつある時に彼らがどのような行動を取り得るか、そしてその結果如何なる影響が現れてしまうのかについて、自覚的になる為に必要な事だったのでしょう。

今は"At The World's End"と題されている3作目において描かれる筈の、「海の覇権をかけた両陣営の正面衝突」において、ターナーとエリザベスがどの様な選択を経てどのようにジュブナイルの世界に回帰するか、そして消えたジャック・スパロウを筆頭に「海賊達の復権」をどの様に描き出す気なのか、観客としては、プロットが類型的であればあるほどその持ち味を発揮するヴァービンスキー監督の筆捌きを信じて、次回を楽しみに待つべきなのでしょう。

3部作の2本目では意図的に残された謎に翻弄され、3作目公開時までやきもきさせられるのが常になりましたが、今回私が最高に気を揉んでいるのがエンドクレジット後の1カット。1作目のラストショットを飾った猿君を今回忘れなかった様に、3作目でも「彼」がどうやって苦難を切り抜けたのかを忘れずに教えて欲しいものです。

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