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August 15, 2006

『グッドナイト&グッドラック』

決して声を荒げる事無く、冷静かつ的確に"報道"の渦中にいるエド・マローとそのクルーから私が感じたのは、彼らの物腰とは全く逆の焦燥と怒りでした。彼らは、彼らの手が及ばない世界の存在と手を充分に手を及ぼす事の出来ない自身の不甲斐なさに、終止焦り、怒り狂っていたかの様です。

怒りの矛先はマッカーシーに象徴される社会悪だけではありません。彼らはそれ以上に、社会悪を放置した者達に対して怒り、自分たちの言葉が伝わらない事に怒っている。伝わらない相手というのは、当然テレビの向こう側にいる大衆のことです。

どれだけ警鐘を鳴らし、不正を暴き立て、その断罪を求めようとも、大衆は常に無知と無理解という衣の影に隠れようとするものです。本質的に彼らが無知であるか無理解であるかとは関係なく、そこには生じた責任をあわよくば回避したいという意識が抜きがたくあるのでしょう。その方が彼らは安心なのですから。

恐らくは正義感のみではなく功名心と職業へのプライドから「責任を引き受ける」事を選んだマロー達にとっては、その事が我慢ならなかったのでしょう。彼らの声を受け取る者達がいなければ彼らは単なる道化でしかありません。

実のところマロー達にとってみても、敢えて声を上げ警鐘を鳴らした事について、それが正しい行為だったと言う「承認」が誰かからもたらされる事による安心を求めた部分はあったものと思います。そしてそれを与えられるのは、彼らの視聴者を置いてありません。

マロー率いる『See It Now』のスタッフは、遂に視聴者からの明瞭なフィードバックを得る事無く、番組を解体する事になります。たとえマッカーシーから権威の衣をはぎ取ってみせたとしても、それは彼らにとってはひとつの敗北だったのでしょう。

マローの怒りと焦燥の所以を、私はその様に解釈しました。そしてそれと同様の怒りと焦燥を、本作の語り手としてのG.クルーニーからも同様に感じます。父親と自身の仕事を通してテレビ界の実情を見聞きし、そこで行われてきた事と行われぬままに置かれた事を周知している筈のクルーニーにとって、マローの警鐘は今に至るまで鳴り響き続け、人々はそれを無視し続けている、と感じていたものの様です。

報道はショーではなく、走査線の向こうで交わされる言葉は口当たりの良さだけを求めた物ではなく、そこから人々が得るのは一時の気晴らしだけではなく警告や示唆や思想でもあり得る。テレビという媒体には(そして勿論他の如何なる媒体であっても)、それだけの事を伝える力がある事を、クルーニーは再び私達に思い返して貰おうとして、敢えてエド・マローの物語を現代に持ち込んだ様に思います。

『グッドナイト&グッドラック』は一人の狂信者を排斥する物語ではなく、ひとつのメディアが堕落して行く過程と、その中で堕落に抗おうとした一握りの人々を描いた物語として完成しました。作り手がはっきりと言うべき事を持ち、それを意識して入念に作られた作品には、常にどこかストイックな雰囲気が漂います。本作もまたそうした雰囲気を濃厚にまといつつ、一本の高水準な映画として仕上がった事で、テレビと映画という二つのメディアが本来持ち得るポテンシャルをどれだけ捨てて来たかを、つかの間観客に思い起こさせる作品となりました。

人は常に苦い事実よりも口当たりの良い娯楽を好みます。テレビの世界でも映画の世界でも、本作で提示された問題定義はいずれ忘れられ、視聴者と観客を喜ばせる為の番組がモニタとスクリーンを埋めて行く事でしょう。

そうした中で、かつてエド・マローの様な存在が成し遂げようとした事、そして今またG.クルーニー監督が成し遂げようとした事、更には世界中のメディアの中でそれを指向するささやかな動きが見られた時に、それらに目を留め、棄却する事無く評価する事が、本作の観客となった私達が引き受けるべき「責任」という事になるでしょうか。

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