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August 09, 2006

『レント』

舞台では第2幕の冒頭にあたる"Seasons of Love"から映画版『レント』は始まります。本作の中でもとりわけ美しく胸を打つメロディと、何も無い舞台の上、立ち尽くしたままライトを浴びて唄う登場人物達の姿は、この映画の中でも屈指の名場面。しかし皮肉な事に、冒頭に置かれたこのナンバーは、舞台版『レント』の魅力であったであろうものを、映画版『レント』が打ち壊して行く象徴ともなっているのでした。

『レント』の下敷きは歌劇『ラ・ボエーム』。更に遡ればそれは、19世紀末の巴里に集った芸術家の卵達、ボヘミアン芸術家と称されていた彼等の一人が書いた小説に辿り着きます。当時彼等が直面していた不安と焦燥と希望、更には「結核」という具体的な形で襲って来る"死"への恐怖に、20世紀末の芸術家の卵ジョナサン・ラーソンが共感を持った事が、『レント』の出発点でした。

ラーソンはイースト・ヴィレッジの芸術家コミューンに集う"同士"達がAIDSにより次々と倒れて行く現状と、それでも尚明日を担う(筈の)クリエイターの巣窟としてのコミューンへの誇りを、そのままぶつける様に『レント』を創り上げました。それは世界に対して彼等自身が「そこで生きている事」を誇示し、表明する為のものでもあったのでしょう。

つまり『レント』という作品は、NYに赴き、そこに生きる人々の声に耳を傾ける、という過程を、その作品の骨格の中に組み込んでいる作品でもあるのでした。客席の人々は、自分の眼前でパフォーマンスを繰り広げる人々が「現実に」どのような場所に生き、どのような生活を送っているかをまず知らされ、後にそこにいる個々の人々の中に分け入って行く、という段取りを経て彼等の物語を知る事になります。狂騒的なボヘミアン賛歌"La Vie Bohem"で終わる第一幕から、第二幕の始まりと共によりパーソナルな願いを歌い上げる"Seasons of Love"への転換は、そのために必須の構成だった筈です。

今回の映画版『レント』は、そうした構成を一切無視して語り始めてしまいました。観客はまるで登場人物紹介の様に"Seasons of Love"を受け取り、そこでステージに立つ登場人物達"だけ"の物語として彼等の物語を把握します。それは個々の人物ごとに見て行けば確かに起伏に富んだドラマではあるかも知れませんが、それらを纏め上げ、ひとつの世界に生きる複数の人々の物語として昇華する為には、「彼等が共に生きている世界」の説明が前提となる筈です。

映画版は、世界の紹介と人物の紹介を舞台版とはそっくり逆にしてしまう事により、観客が物語に「分け入って行く」入り口を見失わせてしまったのでした。たとえ彼等の集うアパートの一室と実景のNYをシームレスに繋げたところで、その世界独特の性格を描き出す事が出来なければ、観客は単なる風景としてそれを認識する以外にありません。結果として映画版『レント』は、特異な環境で特異な人々が勝手に生き勝手に死んで行くドラマとして、当初ラーソンが思い描いた「我々はここで闘っている(あなた方がどこか別の場所で闘っている様に)」という意思表示を完全に欠いた物語として完結してしまったのでした。

クリス・コロンバス監督はこれまでの作品でも場面ごとの「気分」を醸造する事は得意ですが、それを踏み越えて場面を統合し、醸し出された「気分」を主題に結びつける事を苦手として来ました。そもそも彼にとって映画は一時の感情の昂揚をコントロールすることでしかないのかもしれません。そうした監督の性向が、『レント』の構造とそれが指し示す方向性を破壊し、ただ"Seasons of Love"一曲のみを(映画の力を全く借りずに)輝かせる事になってしまったのでしょう。

NYを訪れた人々がNYで生きる人々を見出すという、そもそも『レント』が持っていた構造を考えると、訪れる事無く彼らを知ろうとする観客が「訪れないが故に」それが叶わない映画版は、オリジナルの価値にとっては却って僥倖だったのかもしれません。良くも悪くも世界に均等に届けられる"映画"というメディアだからこそ、なし得ない事もある、という事を知るのは、映画だけに拘泥している私の様な者にはひとつの教訓ではあります。

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Comments

懐かしいですね。この映画、ずいぶん昔に見たような気がします。(笑)

>場面ごとの「気分」を醸造する事は得意ですが、それを踏み>越えて場面を統合し、醸し出された「気分」を主題に結びつけ>る事を苦手として来ました。

なーるほどそうなんですねえ。確かになんだかミュージッククリップ的断片を見せられてる感がしたのですが。

まず世界を描いて、そこから細かいとこを描きこんでいくという過程が飛ばされてるから、なんとなく見ていて、他人事な感じがするわけですね。
やはり、作り手が、一度原作である物語を自分の中で吸収解体、再構築してアウトプットされるという丁寧な作業が必要であり、そのへんがどうも荒っぽいんちゃうんかなあとか思ったりしました。いや、あの曲は素晴らしいんですけどね~。

Posted by: ミノ | August 13, 2006 01:12 AM

> 懐かしいですね。この映画、ずいぶん昔に見たような気がします。(笑)

実際まるまる3ヶ月前ですから(笑)更新を怠けている内にこんな事になってしまいました。

舞台通の方が「ブロードウェイの映画化は絶対にブロードウェイには勝てない」という類の話をされる時には、映画好きとしてはいつも軽い反発を覚えてしまうのですが、実際に"ブロードウェイ(NY)という場所"の存在が重要な『レント』の様な作品では同意せざるを得ないのが寂しい所。

> やはり、作り手が、一度原作である物語を自分の中で吸収解体、
> 再構築してアウトプットされるという丁寧な作業が必要であり、
> そのへんがどうも荒っぽいんちゃうんかなあとか思ったりしま
> した。いや、あの曲は素晴らしいんですけどね~。

"Seasons of Love"は、一時毎日の様に聞いていました。C.コロンバス監督は丁度『レント』が初演される前後にイースト・ヴィレッジに住んでいたそうで、自分の体験や共感や『レント』への思い入れと、観客が作品に接した時の感触が切り分けられなくなってしまったのかもしれないな、とちょっと思いました。

Posted by: olddog | August 13, 2006 11:23 AM

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