« 『グッドナイト&グッドラック』 | Main | 『カーズ』 »

August 16, 2006

『ダ・ヴィンチ・コード』

あらゆる信仰から切り離されている事は、現代の日本で生活する事の特典のひとつだと私は思っていますが、ごくたまに本作の様な映画に接した時、少々残念な気分になったりします。『ダ・ヴィンチ・コード』の魅力の大半は、キリスト教文化圏の"常識"に疑いを投げ、その疑いに様々な手法で信憑性を肉付けして行く面白さに依っています。それは当然ながら非キリスト教圏の人間には単なる「異説」でしかなく、そして『ダ・ヴィンチ・コード』からその部分をこそげ落としてみると、そこには凡庸かつ些かご都合主義的なサスペンスしか残っていないのでした。

ダン・シモンズの小説をプロットだけに着目して追ってみると、それがあからさまにハリウッドが生んだアクション映画、『インディアナ・ジョーンズ』を指向している事に気付きます。考古学の代わりに象徴学、鞭の代わりに知識と言葉を与えられたラングドン教授が、ハリウッドの先達同様、庇護の対象である女性を伴って、怪しげな結社や政治組織を相手に立ち回りを演じるというのが物語の骨子。

21世紀に至って神秘を取り上げられた"冒険家"が、手垢のついた教義の中から再び神秘を発見すべく苦闘する顛末が、ロバート・ラングドンのシリーズの主題だ、と断じてしまうのは穿ち過ぎた見方でしょうか。

そうした物語を映画化する為には、当然重点に置かれるのは「神秘を如何にして取り戻すか」、即ち現代の我々が事実と認識している事を、どれだけの信憑性を以て覆す事ができるかが成功の鍵になります。しかし乍ら、そうした一種学術的な楽しみを視覚化するには、ハリウッドという場所は製作母体としては余りに不釣り合いな方向性を持っていた様です。

かつて、やはり歴史の中の「異説」を掘り起こし、娯楽作品の体裁を忠実になぞりながらも、見事な知的エンターテインメントとして結実させる事に成功した『薔薇の名前』という映画がありました。この時製作者達は「原作小説が指向した物を余さず再現する為、敢えて付いて来られない観客を切り捨てる」という、実に潔く勇気のある決断を下し、結果として映画は原作小説を読んだ者にも読まなかった者にも受け入れられる傑作となりました。

しかし『ダ・ヴィンチ・コード』の製作者、即ちハリウッドの作り手達は、そこがハリウッドであるが故に、「観た人全てが完璧に理解できる映画」を指向する事が不可避となってしまいました。これはシモンズの原作がエーコの原作よりも遥かにいいかげんである事を差し引いても、相当に高いハードルです。しかもそれは、映画の質を高めるという点については、全く何の貢献もしないハードルなのでした。

プロットを判りやすく整理し、原作の持つ冗長部分を纏め上げて尺の制限をクリアし、2転3転する登場人物の立ち位置に観客が混乱しない様気を配り、しかも原作の特徴である虚実もろもろの蘊蓄を余さず取り込んで破綻を起こさない。その上面倒な事に、あきらかに複数の映画から影響を受けたと思われるシモンズの文章と、元となった映画との近似を観客に悟らせない為の工夫まで必要になってきます。ほとんど曲芸に近いこれだけの条件を最初に設けられて、尚且つ「良い映画」を作れるフィルムメーカーは、残念ながら地上のどこにも存在しないでしょう。

ビジュアルを駆使して状況説明する事に関しては、実はメジャー映画界屈指の実績を持っているR.ハワード監督にとっても、この条件は荷が重過ぎた様です。お得意の対象物の内側にまでカメラが潜り込んで行く表現描写や、複数の場所で発生した幾つかのアクションが最終的に一箇所に収束する場面演出をもってしても、原作小説の粗筋をなんとか2時間以内にダイジェスト化するのに精一杯。どの場面を見ても「後数分、数ショット」の追加が許されなかった為の舌足らずな印象がつきまといます。

結果としてラングドン教授がルーブル宮から初めルーブル宮で終えた2時間半の探索は、遥か昔ヴェネチアでジョーンズ教授が「地図に書かれた×印」を発見した僅か数分間に、描写力でも演出の巧みさでも、そして観客の昂揚を高める手腕においても、遥かに及ばない、という事になってしまいました。映像の力は直裁に観客に示すべき物を示す時に最も力を発揮しますが、「原作の長所」そのものにそれを阻まれた状況では、ハワード監督といえどもそれを生かす策が見つからなかった、という事なのでしょう。

「上手に起承転結を語る」事が不可能な場合、機転の利く語り手は場面単位での臨場感に重きを置く事を考えます。今回R.ハワード監督は、どうやらそうした方向転換をやろうとした模様。ラングドンの語る中性の逸話が映像として展開されて行く過程を追いながら私が気付いたのがその事でした。映画版『ダ・ヴィンチ・コード』では、原作が台詞の一言で済ませていることでも、それが歴史上のものである限り、結構な予算をかけて律儀に映像化に勤めます。

どうやらハワード監督は、役者が立ち機材とスタッフが取り囲む場所、観客の側からはスクリーンの形に切り取られた向こうにある場所で、「実際にそれが起こった」という事実を肌で感じてもらう事に、最大の注意を払った様です。現存する史跡にはロケーションを徹底して「目の前にある事物」と地続きの歴史を示し、時には現存する実景とイリュージョンを重ねる事で「ひとつの場所で起きた幾つもの歴史」をいちどきに見せようとする。その試みは余り成功しているとは思いませんが、作品毎に何等かのチャレンジを繰り替えしてきたハワード監督らしさが垣間見られ、彼の作品のファンとしてはほんの少し安心できるものでした。

出来の悪い脚本が最終的に頼るのは、いつでもそこに書かれた台詞を喋る事になる生身の役者達。原作キャラクターとの相違はともかくとして、本作に集まったのは芸達者ばかりで、その部分だけに着目すると様々なパフォーマンスを楽しむ事ができます。ティービング教授役のI.マッケランとラングドン教授役のT.ハンクス、ロンドンの舞台で叩き上げた名優とNYのスタンダップコメディで鍛えた名調子の掛け合いは、映画の内容とは全く関係の無いながらも、充分に観客を沸かせる見物になっていました。

|

« 『グッドナイト&グッドラック』 | Main | 『カーズ』 »

Comments

The comments to this entry are closed.

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 『ダ・ヴィンチ・コード』:

« 『グッドナイト&グッドラック』 | Main | 『カーズ』 »