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August 10, 2006

『ニュー・ワールド』

T.マリック監督の映画には独特の話術があり、独特の法則があります。最も特徴的なひとつは「登場人物の台詞を場面説明に限定し、決して人物や物語の内面を語らせない」こと。マリック監督はその代わりに、美しすぎる程の風景描写やそこを流れる風や水の音、そしてダイアローグの倍近い頻度で現れるモノローグを用意し、そこに主題を込めていきます。

たぶん前作『シン・レッド・ライン』で確立されたこの手法は、圧倒的な「世界の美しさ」を観客に再認識させ、同時にその中に投げ込まれた個人のごくごくパーソナルな心の動きを、ひとつの詩の様に観客の心に刷り込んで行きます。ギリシャのアンゲロプロスが雄大な歴史の流れを視覚化する為に用い、ロシアではソクーロフが映像的昂揚の喚起の為に採ったのと同じ手法を、T.マリックは"人の心"のうつろいを接写する格好の絵筆と考えたものの様です。

そうした監督の筆致は、『ニュー・ワールド』では開巻と同時に強烈に印象づけられる事になります。まだ世界にこれほど美しい風景が残っていたのかと驚嘆させられる、水と葦と巨木で彩られた世界は、そこに"物語"が乗る事wを疎ましく感じてしまう程。マリック監督はその中に粗野な探検家ジョン・スミスを起き、硬直した社会から弾き出された彼が、もうひとつの価値観を有する"新世界"に目を開かされていく様子を、(いつもの通り)彼の心情に寄り添う様にして、丁寧に描写して行きます。

この映画の構造で面白いところは、タイトルの「ニュー・ワールド」がただ("発見"されたばかりの)アメリカ大陸のみを指している訳ではない点。スミスがそうであった様に、個人の目を開かせ新しい価値観と視点を獲得させるものすべてを、この映画では「新世界」と位置づけ、従ってそうした視点や価値観の変化を体験した人すべてを「新世界の征服者」と見なしているようです。

映画の中で提示される二つ目の「新世界」は、現代に生きる我々でさえ体験できる普遍的なものとして登場します。それはアメリカ原住民の族長の娘、部族の中で牧歌的に暮らしてきた彼女が、スミスに抱く恋心そのもの。未知の存在に惹かれる時の怖れ、不安、あるかないかの危機感が彼女の独白を通して示される時、観客である私達は、この映画がただ「新世界が発見された時」を映像化している訳ではなく、主眼に置いているのは「"発見"された新世界がいかにして"征服"されていくか」である事に気づきます。そして、征服すべき世界とは必ずしも物理的な新天地を必要としない事もまた、彼女の行動で知らされる事になる、という趣向。

スミスが族長の娘を通して触れたアメリカ原住民の行動規範と、娘がスミスを触媒に得た自律の意思。その両方が象徴的に交差するのが、飢餓で壊滅寸前の入植者コロニーに原住民達が補給物資を携えて訪れる冬の夜のシークェンス。スミスにとっては自身の探索と交流が無駄ではなかった事の証明である彼らが、一方で彼らを率いる族長の娘にとっては、「部族の為」という(これまでは)絶対不可侵の掟を超える通過儀礼の証となります。スミスと族長の娘はこの時、それぞれにとっての「新世界」をそれぞれのやり方で肯定し、これ以上ない程に平和的な形で「征服」しつつある所だった、と言えるでしょう。

面白い事にこのシークェンスを境に、冒頭に述べたマリック監督の特徴的な手法、ダイアローグよりもモノローグに重きを置き、モノローグと映像の相乗効果でテーマを語りきってしまう手法はぱったりと鳴りを潜めてしまいます。その先にあるのは、相変わらず陰影に富んだ美しい映像を用いながら、ごく順当な手法で描かれる物語。私達はもはや登場人物の情動の推移を言葉で知る事はできず、彼らの行動から類推するというありふれた鑑賞スタイルに立ち戻る事になります。

この時点以降、スミスと引き離された族長の娘がどのような葛藤を抱きどのように後の人生を歩んだかは、これまでのように彼女に"寄り添って"共にそれを感じるのではなく、彼女を"観察"した結果を観客それぞれが租借する意外に知る方法がありません。

そしてそれと同時に登場するのが、映画と観客にとっては3つめの「新世界」。徐々にアメリカ大陸に浸食しつつあった、ヨーロッパ"旧"大陸の文明と思想、そして何よりも彼らの世界が持つ思考体系そのものです。それは本来の意味で純朴なアメリカ原住民の世界とも、直裁なジョン・スミスの世界とも馴染まない、憶測と類推によって他者を定義し、定義される事に"備える"事が必須とされる、閉鎖され硬直した社会なのでした。

それはまず、欺瞞の形を借りて登場します。族長の娘が人質として砦に連れて来られた時、スミスが彼女を偽って死を偽装した時、彼女は「第3の新世界」と初めて直面したと言えるでしょう。そこで語られる欺瞞は、ただ相手を欺き自身を優位におく為のものではなく、相手に対する気遣いと、その気遣いをも言い訳に自分自身をも欺こうとする意図が込められたものでした。それはこれまでの彼女の世界には存在せず、しかもそれらを理解しなければ新しい世界では折り合いを付けて生きて行く事すら難しい。

「レベッカ」の名を与えられた族長の娘が、この精彩に欠け複雑な「新世界」を理解し「征服」する過程こそが、映画『ニュー・ワールド』の描く主題であり、これまでもマリック監督が自作の中で繰り返し言及してきた事でした。人が失った善性は、社会システムによるものなのか、それとも人そのものに致命的な因子があるものなのか。マリック監督はこの主題の為に、遭えて異なる社会システムを併置し、それが相互を浸食して行く過程を追える時代、「新世界発見の時」に立ち返ったものの様です。

いつのまにか私達が考える「新世界」の意味が逆転している事による面白みはありますが、しかしその再発見の過程は、酷く辛いものともなってしまいました。"レベッカ"が旧大陸の価値観に縛られた男ジョン・ロルフの求婚に応え、彼を家長とする生活に馴染み、彼なりの愛に理解を示せる様になる過程は、それこそ「旧大陸の思考過程」を彼女が身につけて行く過程であり、「新世界」が持っていた可能性が人の心のレベルで潰されて行く過程をつぶさに見ている様でもあります。

後に再会したスミスの嘘を許し、彼の(彼自身も気づいていない)自己弁護を認めた"レベッカ"は、もはやヨーロッパ式の思考過程を完璧に身に付け、それに従って対人関係を構築する"旧大陸の人間"と寸分変わる所がありません。そのようにして彼女は灰色の"新世界"と、彼女が辿って来た人生を征服し、封印する事になります。

ではその過程を通してマリック監督は、人の善性を否定してみせたのかというと、不思議な事に私は全く逆の印象を受けました。何故なら、"レベッカ"がスミスと彼との過去を振り切ったまさにその時、マリック監督はお得意の心象風景とモノローグによる独特の話術を復活させてくれるからです。

メロドラマ調に流されかけた物語はここに至って再び断片的な風景とモノローグによる「印象の集積」に立ち返り、その中で"レベッカ"は亡き母親への語りかけを再会します。そこに想起されるのは、母親個人と母親の属した社会・歴史を身近に感じ、その連なりの中に自己をも置こうとする「思慕」の想いそのものです。

最愛の人物との間に距離を置く事を覚え、心の遠い相手に歩み寄る術を身につける事で「人との距離の取り方」が全く異なる世界の住人となりながら、彼女は彼女がかつて属した世界の流儀で「想いを伝える」方法を忘れず、ごく自然にそれを呼び起こし、自らの人生の節目に当て嵌めてみせてくれました。それが「善」であるか否かの判断は留保しつつ、マリック監督はそこに、システムを軽く超越して個を完結させる人の意思を見せてくれた様に思います。

オープニングと相似を為すエンドクレジットの背景は、空白の海図に陸地が描かれ名が付けられ、空想上の存在が取り去られて行く姿。既に「新世界」はどこにもなく、全てが既知の存在と成り果てる過程を示しつつ、マリック監督はそこに延々と水のせせらぎと鳥の囀りを重ね続けます。幾重にも「征服される過程」を重ねて描きつつ、最後までマリック監督は征服されざる者にこだわってくれるのでした。

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