『ナイロビの蜂』
『シティ・オブ・ゴッド』の監督が次回作にJ.ル・カレの小説を選んだと聞いたときに私が期待したのは、重厚かつ硬質なサスペンス・スリラーの誕生。しかし実際に出来上がった映画は、サスペンスとは正反対の方向へと力強く歩を進め、苦いラブストーリーの傑作として完成しました。それは結果的に、ル・カレの作品が順当にスリラーとして映像化される以上に僥倖な事だった様です。
人が人に惹かれる時は、そこに自分には無い要素を見つけ出す時が常。自身が持ち得ない何かに惹かれ、それを理解し我がものにしていく過程は、多分恋愛の大抵のケースに当て嵌まる、時に幸福で時に痛みを伴う一時期でしょう。
駆け出しの活動家を妻に得た堅実で温厚な外交官クェイルは、妻を理解は出来ても共感にまでは至る事無く日を送って来た男。相手を尊重する思慮は時には相手から身を躱し続ける言い訳にもなってしまいます。そうした態度が、いずれ尊重すべき相手そのものを失ってしまう事もまたままある事。
妻の情熱と義憤に立ち入らず自らの領域を守って来た男が、妻の死により「自分が立ちいらなかった領域」の広さと深さを目の当たりにし、遅ればせながらもそれらを取り戻し、自分の愛した女性の全てを受け入れようと努める過程が、映画『ナイロビの蜂』の中で描かれる物語です。ル・カレの原作では少なからぬパートを占めていた妻に対する疑惑と、疑惑が巨大な社会不正にすり替わるプロットは殆ど後方に追いやられ、夫ジャスティンがただひたすら亡き妻を追い求める過程だけに集中して描かれていきます。
スリラーやサスペンスの行き着く先、直裁な"暴力"を前作で突き詰めてしまったF.メイレレス監督にとって、原作の持つサスペンス風味は夾雑物でしか無かったのでしょう。監督はそうした暴力に伍して渡り合う、時には暴力の引き金ともなる人の思いの強さそのものの方を主題に選び、ストイックにそれを追求して見せてくれました。
クェイルが抱く妻の不貞への疑念は、妻への思慕によって、いとも簡単に払拭されてしまいます。知人や関係者への証言に依らずとも、彼は終止妻の「不実」に揺らぐ事はありません。疑惑の証拠を前にしても彼はそれに接した時の妻の答を無条件に受け入れます。
そうした彼だからこそ、妻の死を"受け入れる"為には彼女の道程を辿り、同じ結末に行き着く必要があったのでしょう。そしまた、逆にそうした彼だからこそ、無条件に受け入れ続けるだけの行為が妻の死期を早めてしまった、という言い方もできるかもしれません。
映画はそうした彼を糾弾しません。この物語の中では、妻の死は悪の結果ではあれど物語の発端でしか無く、夫が最後に辿り着くのも死の真相ではありません。映画は彼がどこまで彼女の見た世界に「近づけるか」を唯一の目的として提示し、観客をまっすぐにそこまで連れて行ってくれます。
メイレレス監督の十八番とも言える、暴力が噴出するまでの緊迫感、恐怖感に対する優れた表現力も、彼が先に進む為の障害としてのみ使われます。ドイツのありふれた郊外住宅地を、それこそ「神の街」を超える程の危険と不安感の渦巻く一帯に変質させてしまう描写力は実に見事。しかし監督はそれを「危険と不安感を見せ物にする」為にではなく、あくまでも頼りないクェイルの道中に立ちふさがる障壁の厚さを再認識させる為にのみ用いるのでした。
「目の前の一人を救うのか、一人を見捨てる代わりに背後の数千を救うのか」というのは、クェイル夫妻の様な立場に置かれた人々全てが自問する問題の様に思われます。たぶんそれは答の無い問なのでしょう。多数の幸福を願う「外交官の視点」も、直接言葉を交わした人々を捨て置けない「現地活動家の視点」も、共に幸福を求めるという点では同じです。そこに現れる差は、彼等の窮状を(良くも悪くも)どこまで自分の身に引き寄せて実感しているか、という差でしかありません。
当然ながらそれは、問題解決にとっては特に意味の無い差です。映画はそれを充分に把握した上で、敢えてテッサ・クェイルの答を是として見せます。それをジャスティン・クェイルが求めたから、という理由で。
『ナイロビの蜂』が社会派ミステリの立場を取らず、あくまでラブストーリーであり続けた事の、最も象徴的な例はそこにあるでしょう。この映画で求められているのは、誰かを告発する事ではなく、「誰かを告発しようとしていた者の心に寄り添うこと」なのです。
「背後の数千人を顧みる余裕を捨て、目の前の一人を救う事」を優先した時、そうした心情に至る程に目の前の人々との距離を詰める事に成功した時、クェイルはようやく妻と同じ視点を得、理解するのみならず共感を以て"妻の立つ場所"に立つ事が出来ます。
それは即ち、彼が妻と同様の末路を辿る事が不可避である事をも示すものではありますが、それこそがメイレレス監督がサスペンス・スリラーの体裁を捨ててまで示したかったもの、正義の実現とは告発ではなく共感から始まるのだという主題だった様に思います。
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Comments
毎度失礼いたします。
タンミノワです。
この映画は、今年の洋画ベスト1が未だ揺るがず、です。
レビュー拝読できて嬉しいです。
>「目の前の一人を救うのか、一人を見捨てる代わりに背後の>数千を救うのか」というのは、クェイル夫妻の様な立場に置か>れた人々全てが自問する問題の様に思われます。
「全ては愛のために」というアンジー主演映画でも同じようなテーマを差し出したシーンがありましたね。
とても普遍的なテーマですよね。
と同時に、私がこの映画を見ながら強く感じたのが、「遠くにいる多く(あるいは一人)の人の幸福のために、身近な人を不幸にする」というテッサのような人の生き方の持つ矛盾でもあります。そして、それはどちらが良い悪いの問題ではなく、宿命的に、どんなシチュエーションでも起こり得ることなんですよね。
テッサが夫を不幸にした、とは言いませんが、とりあえず、安寧に生きることを願っていた夫の運命を変えてしまったわけですからね。まあ、そういう女を愛した男の宿命でもあるわけで、そのラブストーリーが主題になってるからこそ、これほど美しい哀しい物語になったといえるわけですが。
>正義の実現とは告発ではなく共感から始まるのだという主題>だった様に思います。
この映画が、とにかくひたすらに愛した人の姿を探してアフリカ大陸をさまよう男の姿を追うものにしたのは、結果的に社会派ミステリにしたよりも、よりずっと、大風呂敷を広げることに成功してると思いました。
一人の人間の心を丹念に描くという小さい世界を描くことで、大きな世界を描く。こういう小さいものが大きい世界に広がり、大きな世界が小さい事に収縮していくという性質の物語が私が大好きなタイプの映画だったのだと思いますね~。
Posted by: ミノ | August 14, 2006 10:39 PM
ミノさん、こんにちは。杉山です。
コメントありがとうございます。
> 私がこの映画を見ながら強く感じたのが、「遠くにいる多く
>(あるいは一人)の人の幸福のために、身近な人を不幸にする」
> というテッサのような人の生き方の持つ矛盾でもあります。
> そして、それはどちらが良い悪いの問題ではなく、宿命的に、
> どんなシチュエーションでも起こり得ることなんですよね。
そういう意味では、テッサ・クェイルもまた夫ジャスティンを「理解」は出来ていても「共感」には至らなかった、という事かもしれません。彼女は自身の危険を知り、夫をそこから遠ざける事に成功はしたけれど、自分の死後夫がどれほどの喪失感を味わい、何を求めて動き出すかまでは思い至る事が出来ませんでした。「互いを思い尊重する」というのは、時に起こりうる事態から目を逸らしてしまうものなのかもしれません。
良くも悪くもテッサとは"そういう女性"であり、またジャスティンも"そういう男"であった、という事なのでしょう。ミノさんやこの映画を気に入った多くの観客と同様、私もあの二人を如何なる意味でも責める気にはなれません。「宿命」という言葉をミノさんは使われていますが、確かにあの二人が出会った以上、あの様に帰結してしまう事は必然だった様に思います。
観客としては、二人が出会わず、ジャスティンが官僚組織の中で際限なく自己に籠って行き、テッサがいずれ"一人で"社会の非情さの前に打ち倒されてしまうという「もうひとつの必然」とこの映画の物語を引き比べ、アフリカで彼等が互いから得た物の豊穣さを、素直に祝福すべきなのでしょう。
> 一人の人間の心を丹念に描くという小さい世界を描くことで、
> 大きな世界を描く。こういう小さいものが大きい世界に広がり、
> 大きな世界が小さい事に収縮していくという性質の物語が私が
> 大好きなタイプの映画だったのだと思いますね~。
言われてみれば、原作のサスペンスを担う部分は別の形でこの映画に作用していますね。パーソナルな領域と大文字の「社会」を適切なバランスで描きこむのは結構難しいもので、流石『シティ・オブ・ゴッド』の監督、と驚嘆した部分でもありました。
Posted by: olddog | August 15, 2006 06:39 AM