« 『ブロークン・フラワーズ』 | Main | 『ナイロビの蜂』 »

August 13, 2006

『アンジェラ』

『フィフス・エレメント』から9年振りのR.ベッソン監督作品は、彼のプロデュースした軽快な娯楽作品とは一転、最初期の3作品の様な内向的で語り手のはっきりした物語として上梓されました。閉鎖的な状況の中で主人公が恋に落ちる事を契機に物語が転がりだすという、これまでのベッソン監督作品に共通したプロットを持ち乍ら、今回はこれまで以上に、徹底してベッソン監督は主人公に自分自身を投影して行きます

そうして出来上がったのが、私がこれまで見た中でも最も醜悪なメンタリティを持つ主人公が、最も醜悪なやり方で自己を肯定する物語だった、というのが困った所。そこに描かれるのは、どこまでも自己愛に拘泥し、他者に責任をなすりつけ続ける主人公が、「至上の愛」なるものに救いを求め、しかも自身は何のアクションも起こさずにそれが報われてしまう、という、噴飯物の顛末なのでした。

主人公アンドレは、すべて自分の才覚の無さ故に苦境に陥り、しかも苦境から脱する努力を何もせずに自身を追いつめて来た男。全ての失策を不運の所為にし、他者に搾取され続けて来た境遇を嘆きこそすれ、搾取から脱する為の手を何一つ打たず、その場しのぎの嘘で「その場」だけを切り抜ければ全てが済んでしまうと思っている男です。

ベッソン監督は驚くべき事に、よりにもよってこの取るに足りない男を、自身を重ねる対象に選んだのでした。彼の心の叫びは一度たりとも否定される事無く、彼の内側には余人の知らぬ光り輝く物が埋まっていると断じ、クライマックスで仰々しく提示されたそれは良心でも慈愛の念でもなく単なる「自己愛」そのもの。一体ベッソン監督をここまで露悪的に、また自虐的にしてしまった何がこの9年間にあったのか訝しんでしまいます。

この映画の一番困った所は、物語とその登場人物が余りにも醜悪で余りにも欺瞞に満ちている一方で、物語を描く映像の方は圧倒的に美しい、という点にあります。DIを十全に駆使して黒の美しさと灰色の奥行きを画面に焼き付け、遠景の圧倒的なパースペクティブを鮮烈に描き出しながら、その中の点の様な人物へ観客の意識を集中させる。構図とカットワークと明暗によるベッソン監督の美術感覚は、久々の監督作品でも全く衰えてはいません。それだけに、そうした豊穣な映像が陳腐な物語に"分不相応に"乗ってくる事に、観客は混乱してしまうのです。「この映像の真摯さは、物語を額面通りに受け取る事を要求しているのだろうか?」と。

製作も含めて丁度10本目の映画にして、ベッソン監督は「自分が如何なる存在か」見つめ直したい衝動にかられたのかもしれません。常に抱え続け、これまでの映画でも端々から見え隠れしていた自己愛と自己顕示欲と依存癖をはっきりと表に出し、隠れ場所を封じる事で彼が先に進もうとしたのであれば、それは(映画そのものに対する最大の裏切り行為ではあるにしても)、この甘すぎる物語を額面通りに受け取るよりは、まだ許す余地がある、と言う事もできるでしょう。

ベッソン監督は本作を日本公開するにあたって、「結末を口外しない様」要請を出したとの事。実際に劇場で接したそのラストシーンは、別に観客の意表を突くものでも、それまで語られて来た物語をがらりと翻すものでもなく、順当に語られるお決まりの結末。あえてそれを隠す必要に駆られる程、ベッソン監督はそれが起こる事が「あり得ない」事、そしてそれがあり得ないのは世界の非情や冷淡さの所為ではなく、劇中の登場人物がそのような奇跡で救われるに値しない事を、誰よりも判っていたからなのかもしれません。

|

« 『ブロークン・フラワーズ』 | Main | 『ナイロビの蜂』 »

Comments

The comments to this entry are closed.

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 『アンジェラ』:

« 『ブロークン・フラワーズ』 | Main | 『ナイロビの蜂』 »