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August 17, 2006

『カーズ』

クレイアニメで知られたアードマン・アニメーション社ですらフル3D-CG作品を公開する程に、CGアニメはすっかり長編アニメーション映画の主流となりました。しかし依然として、その第一号となったPIXERアニメーション社の作品は、他の作品を寄せ付けない水準と品質の高さを誇り、ジャンルに君臨し続けています。それがCG技術の高さ故ではなく、一本の「映画」としての完成度の高さから来るものであることは、映画ファンとアニメーションファンの共通の見解でしょう。

そんなPIXER社の筆頭にして『トイ・ストーリー』の監督J.ラセターが久々に自らメガホンを取ったPIXER長編アニメの第7作『CARS』は、そうした映画としてのオーソドックスな面白さを保証してくれると同時に、今まではさほど表に出て来なかったラセター監督の"持ち味"が、これまで以上に色濃く出た作品となりました。

配給元であるディズニーが余りに予定調和的なファミリームービーに拘泥するのを尻目に、そのプロット上も心理展開上も決して嘘を紛れ込ませない誠実さ、作品のテーマから導きだされるあらゆる可能性を(それがテーマと真っ向からぶつかる物であっても)考慮・検討し、その全てを盛り込んで脚本をブラッシュアップしていってしまう貪欲さがラセター監督作品の特徴。それは例えば『トイ・ストーリ−2』のカウガール人形ジェシーの回想場面の様に、子供向けアニメには場違いな程の深みと、観客には「この映画は決してご都合主義には逃げない」という信頼を与えてくれるものです。

ジェシーの回想と同じ様な感慨を与えてくれる場面が、今回の『カーズ』にも登場します。それは幹線道路"ルート66"沿いの街ラジエーター・スプリングスが、幹線道路と共にどの様に栄えて行き、州間高速道路の登場と共にどの様にして滅びて行ったかを描いた一連のシークェンス。玩具を自動車に置き換え、ラセター監督は再び、「成長と共に忘れ去られて行った大事な何か」を、観客の記憶の中から呼び起こしてくれます。

何かを成し遂げる時には、必ずその陰で捨て去られて行く何かがある、という主張を、ラセター監督は常に自作の中に紛れ込ませます。思い返してみればそれは、PIXER 草創期の短編『LUXO Jr.』から既に存在していたものなのでした。ラセター監督は、それら「捨て去られた物」の価値を改めて認識し、それが生み出す筈だったものの素晴らしさを伝える為に、一連の物語を作って来たかの様にも思われます。

消え去る一歩手前のラジエーター・スプリングスが、只一夜だけかつての精彩を取り戻す場面が実に素晴らしい。不夜城の如き目抜き通りのイルミネーションとそれを反射する磨き上げられた車のボディの艶かしさ。かつて『アメリカン・グラフィティ』の中で実に魅惑的に映った描写が、3D-CGの抽象化された世界で、より鮮烈に、優雅に再現されます。それはラジエーター・スプリングスの皆が待ち望んだ光景であり乍ら、一夜限りの幻想でしか無いという現実が、美しさ以上に哀感を意識させるものでした。

レーシングカーの世界からゴーストタウンに放り出されたレースカー、"ライトニング・マックイーン"を主役に展開してきた物語は、舞台がラジエーター・スプリングスに移ると共に、ゆるやかに主従を逆転させていきます。それが頂点に達するのが、前述の"ナイト・パレード"。この時点でのマックイーンはあくまで物語の進行役でしかなく、そしてラセター監督が本来示そうとしたものが、騒々しいレースの世界、スピードとパワーの世界以上に「車」を輝かせる世界がある、と伝える事だという事が判ってきます。

映画の終盤で、舞台は再び騒々しいレースの世界に戻ります。しかしそこに"ライトニング"マックイーンは、60年代風のカラーリングを身に纏い、どう見てもレースには向かない真っ白なホイールキャップを誇示した、レースカーの方程式を外れたレースカーとして戻って行くのです。ピットには当然の様にライトニング・スプリングスの面々が勢揃いして彼をサポートする。ラセターの理想とする「車のある風景」が、無味乾燥なレースの世界に浸食して行く爽快感。そして浸食はそれだけに留まらず、レースの不文律即ち「最後にチェッカーフラッグを受けた者が勝者である」事を真っ向から否定し、観客に受け入れさせてしまうのです。

J.ラセター監督はその様にして、本来自動車がもたらす楽しみと歓びとはどのようなものであり、そしてそれを「どの様にして取り返せば良いのか」を示してみせてくれました。本来アメリカ程の車社会を維持するのは経済的・環境的に不都合が多すぎる事、それが歓びばかりではなく相当な害をもたらすものである事も、当然アメリカの良心的な映画監督としての彼の意識にはあるでしょう。その上で彼は敢えて、(かつて玩具で同じ事をした様に、)車というガジェットを通じて"失うべきでない大切なもの"を振り返らせる道を選び、またしても誠実な作品という結果を以てそれに成功した様に思います。

PIXERの作品ではいつもの事ですが、画面の隅々にまで盛り込まれた、しかし観客の邪魔には決してならないディテールの数々が実に楽しい。今回は"車"という主題の関係上、私には理解できない部分もかなりありましたが、それでも「"マックイーン"を鍛える元レーサーのP.ニューマン」という図式には思わず笑いが溢れてしまいました。PIXERの映画にはいつも次回作のキャラクターがどこかに隠れているものですが、B.バード監督になる次作"Ratatouille"の主人公を見つけ出せなかったのは残念です。

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Comments

 杉山さんは、'60年代でしたか。僕は、その少し手前の時期かと思いましたが、『アメリカン・グラフィティ』と言われれば、成程と納得です。
 特に僕の目を捉えたのは、対照的な二つの走りの場面でしたが、杉山さんは“ナイト・パレード”でしたか。成程ねぇ、そこからの『アメリカン・グラフィティ』と来れば、ますますの納得です。
 ちょうど今晩、HPサイトのほうにMixi日記とは異なる正式な映画日誌をアップしたので、よろしければ、ご覧ください。

Posted by: ヤマ | August 19, 2006 11:26 PM

ヤマさん、こんにちは。杉山です。
年代に関しては私の勘違い。ヤマさんの「50年代」が正解です。『アメリカン・グラフィティ』が描いた世界は、既に『カーズ』と同様の郷愁に支配されていた記憶があります。少なくともラセター監督が掘り起こそうとしたラジエーター・スプリングスの最盛期は、失意のドック・ハドソンが訪れる以前、1950年代前半になるのでしょうね。

ヤマさんの日誌も拝見しました。若者と先達のドラマというアーキタイプと、現代ハリウッド映画の方向性を重ね合わせてみる視線は、私の全く気付かなかった所でした。自己防衛ではなく自律という意味で、今回ヤマさんが上梓された『カーズ』『ユナイテッド93』の二本は、"ハリウッドがどのようにして自分を維持して行くか"の絵解きの様にも読めますね。参考になりました。

Posted by: olddog | August 20, 2006 11:54 AM

杉山さん、こんにちは。
 早速に拙日誌をご覧くださり、ありがとうございました。
 確かに僕は50年代を想起し、そのように受け止めておりますが、『アメリカン・グラフィティ』を想起されたのなら、あれは確か僕が高校時分の映画ですから、70年代で、その時点での十年くらい遡りでの60年代初めが舞台だったと思います。
 『カーズ』そのものでは、明言してない(ドックの優勝を報じた新聞のスクラップに、もしかしたら、時点表示がされてたかもしれませんが、僕は覚えてません(たは)。)ように思いますので、何が正解ということでもないように思いますよ。

 今回の拙日誌のカップリングにおいて受け止めてくださった視座は、僕自身が企図していたものではありませんでしたが、そのような触発を得ていただければ、書き手としては嬉しい果報ですし、言われてみると、なるほど面白いなと刺激をいただきました。ありがとうございました。

Posted by: ヤマ | August 21, 2006 01:16 AM

ヤマさん、こんにちは。杉山です。
考えてみればラジエーター・スプリングスには、T型フォードからポルシェ911まで、あらゆる時代の車が揃っている訳で、もしかするとアメリカの観客達は、最も思い出深い「自分と車の時代」をそこから自在に拾い出せるのかもしれない、と思いました。そうだとしたら実にそれはうらやましい事です。

人種も信仰も経済基盤も様々なアメリカが、共通基盤として必ず持っているのが「車との記憶」なのだとすれば、それはヤマさんの指摘する原点回帰には格好の材料という事になりますね。尤もラセター監督にどこまでそうした意図があって「車」という題材を選んだのかは判然としませんが。

Posted by: olddog | August 23, 2006 10:32 PM

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