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August 14, 2006

『ポセイドン』

まだCGI技術の無かった頃、事故や災害を描くディザスター映画はそれなりの予算を必要とするものでした。年々目が肥えて行く観客を満足させるだけのスペクタクルを提供する為にはセット撮影も特撮技術も最先端を要求され、いきおいそれらディザスター映画は「大作」である事が必須条件となり、となれば出演する役者達にもヒットを約束するスターが必要となり、予算はますます膨れ上がる。という構図があったのです。1971年の『ポセイドン・アドヴェンチャー』は、正にそういう図式の結果"大作に膨れ上がった"映画の典型でした。

時は流れて今やディザスターはデジタルで作り出す時代。地球の壊滅も船の転覆も街角の交通事故も基本的には同じ手法で達成可能、となると、ディザスター映画を殊更大作に仕上げる必要性は無くなります。それは制作側よりもむしろ、観客側の意識の方に強く現れました。

本物と寸分違わぬ表現力でデジタル情報を見せられるのであれば、観客はそれが本物であるか否かを一切気にせず、「そこで何が起こっているか」に集中する事になります。そしてそれは、「それを映像化するのにどれほどのコストがかかったのか」という意識も排除してくれるものだったのでした。

そうした時代に再び映画化されたポセイドン号の転覆事故は、本来この映画がどのようなスケールで、どの部分に重きを置いて作られるべきものだったかを思い起こさせてくれます。

観客がそこで目にするのは、上下逆転した船内が突如として障害物のあふれるジャングルと化す様子であり、海面に近づこうと昇って行けば行く程窒息の危機に自らを追い込んで行く奇妙な逆転現象であり、英雄的要素と愚かしさを等しく持つ普通の人々が、それ故にこそ自分達を窮地に追い込んで行くプロットの巧妙さです。

要するに2006年版『ポセイドン』は、大予算を証明する為の"壮大さ"ではなく、ディザスターの生み出す"面白さ"だけを追い求めたアドベンチャー映画として作られ公開されたのでした。大作にありがちな仰々しさから自由になり、シチュエーションの生み出す興奮と緊迫感をある意味ストイックに追い求めた本作は、だから「良く出来た娯楽映画」としては実に優秀な部類に入ります。

観客の立場としての私は、通常ならそれで満足して劇場を後にする事が出来ます。しかし残念ながら、私は他の大多数の観客と同様、既に"仰々しい大作指向の"前作、『ポセイドン・アドヴェンチャー』を観てしまっている観客でもあるのでした。『ポセイドン』が大作の縛りから抜け出て獲得した、一本の映画として整った顔立ちを見るにつけ、オリジナル版が今に至るまで口伝に昇る理由が改めて理解できる様な気がします。

それはオリジナル版が単に派手な大作だったからではなく、転覆した船の映像が物珍しかったからのみでもなく、映画の中心に一人の強烈な人物像、G.ハックマン演じるスコット牧師が置かれ、彼の放つ強烈な熱量が映画を突き動かしていたからに他なりません。

陥った苦境全てを神の試練と受け止め、神と対話するよりは競い合う事を望み、エゴイズムすれすれの自己充足の為に他の遭難者達を巻き込んで先へ先へと進み続ける牧師の執念が、やがて他の人々を触発し信じがたい力を発揮して生還へと導いてしまう。彼と彼に反発する刑事A.ボーグナインの確執とその行方こそが、豪華客船とその乗員の末路よりもはるかに観客の関心を買う程に、『ポセイドン・アドヴェンチャー』は(パニック映画である以前に)優れた"妄執と確執の物語"だったのでした。

新作『ポセイドン』には妄執も確執もありません。そこにあるのは生存本能に準じたごくごく順当なサバイバル。災害をただ災害と認識するだけの適度にクレバーで適度に理性的な人々が、観客の予測をほんの少し逸脱する程度の"冒険"を経て生還する様子が描かれるのみ。映像的な迫力や揺らぎの無い描写の力を持ってしても、そこには人の心が立ち向かうべき「極限状況」は存在せず、従って極限状況に置いて初めて発揮される筈の、人の意思が持つ瞬発力も見られないままに終わります。

始めに書いた様に、『ポセイドン』は単独のアドベンチャー映画として観れば充分に及第点をあげられる映画です。決して欠伸や失笑と共に切り捨てて良い作品ではありません。しかし、既に同じ舞台設定、同じ結末、同じ程度の予算を持った同じ名前の傑作が、既に35年近く前に歴然と存在している状況では、やはりそれでは「足りない」のでしょう。

リメイクという立場を進んで選択した映画としては、たとえ別の方向性を見出したにせよ、その方向性の中で傑出した何かを示し、名前に恥じないだけの内実を期待してしまうのは、単なる観客の身勝手で済まされるものでは無い筈です。

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Comments

olddog さん、お久しぶりです。
最近、なんか感想ラッシュですね。読み手としては嬉しい限りです。

で、今回の御発言で、おそらく

>『ポセイドン』が大作の縛りから抜け出て獲得した、一本の映画として
>整った顔立ちを見るにつけ、オリジナル版が今に至るまで口伝に昇る
>理由が改めて理解できる様な気がします。
この辺りが本文のテーマではないかという気がするのですが、最近私も同じような事を考えることが多くて、ついレスしたくなってしまいました。f^_^;;
これはこの作品に限らず、リメイク作品に限らずの話なんですけどね。

>シチュエーションの生み出す興奮と緊迫感をある意味ストイックに
>追い求めた本作は、だから「良く出来た娯楽映画」としては実に
>優秀な部類に入ります。

最近のハリウッド娯楽作品というのを観ていると、私自身上記と同じような感想が多く出てくるのですが、何か物足りないという気持ちも確実にあるのですよね。これもリメイクではありませんが、最近観た『M:i:Ⅲ』などもそういう感覚になった作品の一本です。
だから、この頃「良く出来た娯楽映画」というものはひょっとしたら印象に残らない薄っぺらなものなのか?って気になって来るほど、そういう感覚に捉われる事が多くなっています。
これって、映画の観過ぎのせいなのでしょうかね。(笑)
それとも歳のせい?。f^_^;;
ともあれ、最近のそういう作品には人間ドラマ臭さ(ベタなものも含めて)ってのも薄味になって来ているような気もします。

Posted by: シューテツ | August 15, 2006 09:13 AM

シューテツさん、こんにちは。杉山です。
コメントいただきまして有り難うございます。

> 最近、なんか感想ラッシュですね。読み手としては嬉しい限りです。

下書きのまま放置していた感想を、棚卸しすることにしました。
溜まった下書きを読み返し、どうも以前と比べて批判的な文章が増えている様な気がしていたもので、今回のシューテツさんのご指摘には少々ぎくりとしてしまいました。

> 最近のハリウッド娯楽作品というのを観ていると、
> 私自身上記と同じような感想が多く出てくるのですが、
> 何か物足りないという気持ちも確実にあるのですよね。

> だから、この頃「良く出来た娯楽映画」というものは
> ひょっとしたら印象に残らない薄っぺらなものなのか?
> って気になって来るほど、そういう感覚に捉われる事が
> 多くなっています。

シューテツさんもご自身のblogで書かれていましたが、「正攻法」という言葉は作品によっては「小器用」とか「小さくまとまった」なんていう言葉にも直結してしまいます。数日後には『M:i:III』の感想も掲載しようと思っていますが、そこでも私はシューテツさん同様、余りにも予定調和的に「良く出来た映画」となってしまった事をつい非難してしまっています。

正攻法というのは多分、観客による予測・予想の範囲を一歩も出ない、という事でもあるのでしょう。物語に接した時に驚きが用意されていない、裏切られる楽しみを味わえない、というのは随分と寂しい話です。

映画的完成度(とそれが保証する興行収入)をあまりに追求し過ぎた結果、映画が壊れる寸前まで突き詰める冒険や観客に対する挑戦が忌諱されているとしたら、これもまた寂しい話ではあります。

観客の予測を裏切り驚きを与える為には、作り手が徹底的に"俄"を通すか、予定調和を超えるレベルにまで完成度を高め上げるしかないのかもしれません。面白い事に、先週私が立て続けに観た2本の映画、『スーパーマン・リターンズ』と『ユナイテッド93』は、それぞれ前者と後者の典型の様な傑作になっていました。
ハリウッドにも、まだまだ「濃い口」を目指す作家は残ってくれている様です。

Posted by: olddog | August 15, 2006 08:27 PM

杉山さん、レス感謝です。
で、今日『ユナイテッド93』観てきたのですが、同じように感じていたので読んでいて思わずニヤリとしてしまいました。
ほんとそうですよね、まだまだアメリカ映画もこういう作品を作ってくれるので、そう簡単に見離す訳にき行きませんよね。
それと『スーパーマン・リターンズ』も益々楽しみになってきましたよ。

Posted by: シューテツ | August 15, 2006 11:04 PM

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