『V フォー・ヴェンデッタ』
映画の終幕、広場を埋め尽くした無数のガイ・フォークスの顔が剥ぎ取られて行く瞬間、観客はささやかな混乱を味合わされます。仮面の下から現れる「そこにある筈のない顔」「そこにあるべきではない顔」の羅列は、抽象や心象という言葉で説明付けるには余りにもあからさまな、それまで映画が維持して来た法則を全く考慮せずに置かれたものなのでした。
幾つもの"顔"を前にして観客は、そこから遡って映画そのものの構造を思い返し、今更乍らに気付きます。"V"が放送局を占拠した時からぴったり1年間、ある年の11月5日から翌年の同日までというはっきりした時制を持ちながら、そこで繰り広げられるエピソードは、どれひとつとして1年間の"どの部分"に相当するのか明示される事はありません。それどころか、そこで語られるエピソードの半分近くが、実は誰かの推測や想像だけで成り立っています。
更にその推測や想像には、推測する当人には知り得ない事実がしばしば混入します。"V"が殺害現場に残す薔薇"スカーレット・カーソン"の由来を収容所の医師であったサリッジ医師が知り得る筈もなく、接点の無い二人の男が同じレシピと同じ鼻歌を共有できる筈も無く、射殺された少女がどのような生活を送っていたかを把握している人物は映画の中には登場しません。
彼等の推測や想像や体験した知識は、それを集約し関連づけられる只一人の存在、則ち観客である私達を通じて、初めて機能する様にしつらえられています。それは則ち、"『V フォー・ヴェンデッタ』という物語"は、劇中の誰でもなく、物語の受け手が俯瞰する視点を通して初めて成立する物語としてあつらえられた事を意味します。
意図的に行われたそれら情報の欠落と集中と反復は、映画から整合性を取り去り、確固とした世界からより曖昧な想像力の支配する領域へと、映画を大きく押し戻します。それは物語の持ち得るリアリティを放棄する代わりに、無数に提示可能な物語の中のひとつのヴァリエーションとして"起こり得る世界"を抜き出してみせる、という事。『V フォー ヴェンデッタ』の世界は、その全ての登場人物も込みで、可能性の領域にある無数の選択肢のうちのひとつという、ごくごく限定された役割を与えられて、私達の前に差し出されているのでした。
類型的な「全体主義の中で反旗を翻す反逆者と触発されて行く大衆」の枠組みと、古来からの定番でもある「体制を打ち崩す仮面の男」というモチーフを使い乍ら、製作・脚本のウォシャウスキー兄弟と監督のJ.マクティーグは、映画全体をシミュレーションの枠の中に押し込めてしまおうと企図したかの様です。
それは爆破から洗脳までを一手に引き受けるテロリストをヒーロー扱いする事に対する批判回避なのかもしれませんが、それよりも私はこの仕掛けを、明示された世界設定によって物語が「他人事」の範疇に置かれてしまう事を、製作者達が危惧した為なのではないかと解釈しました。
メディアに先導された"民意"、異端者や少数派への攻撃的な態度、一般に浸透した事なかれ主義等、この映画で唾棄すべき物として描かれた諸々は、既に我々の社会に"当然の如く"存在しています。そうした意識に対する挑発や警告として、寓話の形式は便利な物ではありますが、寓話の世界が具体性を持ちリアリティを獲得すればするほど、それは「確固とした"他の"世界の物語」となってしまい、観客の所属する世界からの乖離からも逃れられません。
(実のところ、ウォシャウスキー兄弟の前作である『マトリックス』3部作にはその点に欠陥がありました。彼等の主題と主張は、彼等の提供した膨大なディテールに完全に塗りつぶされ、挙げ句コロンバイン高校で起こった如き「誤解」を引き起こす事になります。)
饒舌すぎる口上が却って個性を隠し仮面のみを意識させる"V"のキャラクターと、仮面の内側の顔が何者でも在り得る「"V"の世界」を用意した背景には、アクション映画という枠組みの中で可能な限り寓話から具体性を排除し、仮面の裏側に「私達の世界」を滑り込ませる事を容易にしようとした、作り手の企みがあった様に思えます。他に幾つもある全体主義と反体制活動を描いた映画の中で、私達が殊更に『V フォー・ヴェンデッタ』の主題に惹かれ、困惑し、主人公の行動が抱える矛盾を解き明かしたいと思うのは、その仕掛けの故なのでしょうか。
オールド・ベイリーの破壊から始まる"V"の復讐劇は、ビッグベンの大爆破により幕を閉じます。一貫して "V"の行動に何の肩入れもせず、その復讐劇を常にエクスキューズ込みで描いて来た映画は、ここに来て素直にカタルシスに身を委ね、これまで如何なる映画でも見られなかった程の壮麗な大花火大会を見せてくれます。
それは直前に描かれた「仮面に隠された何者でもない集団」を、素直に映画を鑑賞している自分自身に重ね合わせる事のできた観客、寓話の中の主題を読み取り、それを自身に突きつけられた問いだと認識した上で、"その場に立ち会う事を選択した"観客にだけ与えられた賞品として置かれたものの様に思われました。仮面の背後に「私たち自身」を見る事のできた観客にだけ与えられた、それは最大級の"ご褒美"だったのでしょう。
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Comments
拝読しました。
私が全然意識的に感じ取れなかったことを文字にして頂いた感じです。
私自身は、この物語に対して、当事者意識vs他人事(物語世界のこと)の間を微妙に揺れながら見ていたように思います。
この映画って本当に、「ワシはこう思うんや」というメッセージってないですね。言われてみて初めてわかりました。
おっしゃる通り、無数の顔顔が埋め尽くすシーン、あれが最大のメッセージなのかなと。あの中の一人、が自分なのかと。
絵のキレイさに目を奪われて余り深く思考するに至らなかった映画でしたが、見方を変えて頂きました。
Posted by: ミノ | August 13, 2006 12:56 AM
ミノさん、こんにちは。杉山です。コメントありがとうございます。
私の感想は独りよがりなものが多いので、それこそ「私はこう思いました」程度のものと受け取って置いていただけると有り難いです。
サブカルチャーに傾倒し片方がトランスジェンダーの人でもあるウォシャウスキー兄弟としては、実は主張したい事は多々あったものと思います。ただそれをそのままぶつけてしまうと、それは「監督の主張を拝聴する事」でしかなく、受け手の思考が閉ざされてしまう。
製作者はそれを嫌ったのかもしれません。
問題定義のみで映画を締めるのは結構ありふれた手法と思いますが、娯楽アクション映画でそういう事をして見せた事は珍しい。本作があちこちで「アンバランスな」とか「いびつな」とか「毛色の変わった」という様な形容を伴って紹介されているのも、その所為なのではないかと思っています。
Posted by: olddog | August 13, 2006 11:15 AM
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Posted by: website | January 22, 2015 03:25 AM