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March 22, 2008

映画を巡る事項:また別のホテルに取り残された人々

「我々はテレビの30秒の報道に接し、眉をひそめ、"可哀想に"と言い、そのまま忘れ去ってディナーに戻る」

映画の中のそんな台詞に胸を打たれ、無関係で安全な立場から一歩も出なかった我が身を恥じたのはほんの2年前。
結局私達は、あの映画や映画に込められたメッセージを「忘れ去ってディナーを続けた」という事なのでしょう。悲しい事だけれど自分たちには何も出来ない、と自らに言い聞かせながら。

映画の持つ力などというものに信を置かなくなってからもう随分と経ちますが、今回の様にそれを具体的に目の当たりにすると、やはり気が滅入ります。

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Comments

「我々はテレビの30秒の報道に接し、眉をひそめ、"可哀想に"と言い、そのまま忘れ去ってディナーに戻る」

それが、真実であるからこそ、映画には力があると、言えないこともないでしょう。


Posted by: シューテツ | March 22, 2008 01:00 PM

シューテツさん、ご無沙汰しております。

映画を含めたメディアの持つ力は、それを受け取った者に作用し何等かの波及を促すことで発揮されるものと私は思っています。しかし現代のメディア消費のスピードに互して生き残れる「伝えられた真実」は余りに少ない。

まして受け取り手が耳を塞ぎ、受け取る事を拒んだ時、真実の持つ力にどれほどの事が出来るものでしょうか。

後の時代、ある国のある民族が消滅した経緯を描く映画が製作されるかもしれない。そうした映画が多数の有志の力で世界各国から好評を浴びるかもしれない。
しかし、その結果死者が蘇る事はありません。
「過去の真実を再現する力」の効力とはその程度のものなのです。

そしてどうやら、その「真実を伝える力」は、新たな悲劇を創出する抑止力にもなりそうもない、という事も、今まさに明らかになりつつあります。

かつて良く似た事態を描いた物語に心動かされた一人として、心動かされた自分を裏切らない為にはどちらの方向に歩を進めれば良いのか、伝えられた真実への回答を先延ばしにし続ける事で、物語の無力を再確認するだけの状況をいつまで続けるのか。観客一人ひとりに難しい選択が突きつけられているのではないでしょうか。

Posted by: olddog | March 22, 2008 02:42 PM

olddogさんが言われることは私もよく考えますし、難しい問題ではありますね。
しかし、それは映画だけの問題では無いので映画の価値を下げるものでないのも確かなことです。

映画の持つ力や役割や、観客にとっての(映画の)存在価値は様々ですので、ここで無理矢理結論を出すつもりは毛頭ありませんが、olddogさんが掲げている問題意識は、私の中ではやはりそれは映画だけには留まらない問題という結論になってしまいますね。

文学だって演劇だって、絵画だって、鑑賞者にとっては恐らくそれと全く同じ問題が含まれているとは思いますが、結果的にそれが伝える側の限界だとは誰も思わない訳で、むしろ観客(鑑賞者)側の問題であり、更に言うなら社会の問題でもある訳ですよね。
社会(人間)に対する絶望が、そのまま芸術に対しての絶望とイコールなのか?、かなり重要で難しい問題ではありますが、私はいつも芸術と接する時は対社会として考えずに、対個人として考えていますので、私個人にとっては、映画という媒体はまだまだ存在価値(救い)のあるものなんです。

それと、olddogさんが嘆く抑止力にもなりそうもないという言葉は、映画に投げられるよりも、もっと本来のその役割を担っている所がある筈ですし、それらが(ジャーナリズム)が全くの無力(というより逆に煽っている形)で、更に害悪を垂れ流している状態なので、向ける矛先が映画だけでは、あまりにも映画が可哀想な感じはしますよ。(苦笑)

Posted by: シューテツさん | March 23, 2008 10:10 AM

たぶん「映画を巡る事項」というカテゴリに収めた所為で誤読を誘ってしまったものかと思いますが、今回私の慨嘆と焦燥は、映画そのものに向けられた物ではありません。

むしろ、私は映画が伝えた「真実」をそのまま受け取りながら、それをどの様にも扱わなかった「観客」の方を問題視しているのです。当然私自身も含めた上での話ですが。

芸術作品であれジャーナリズムであれ、それらが辿り着く終端は常に観客であり視聴者であり"受け手"の立場に身を置く私達です。様々なメディアを通して送られた様々なメッセージは、常に私達を突き動かす為に送られて来るものといって良いでしょう。

それでも私達は"ディナーに戻る"。たぶん今回もまたこれからも。
映画を無力にしたのは、受け取った「真実」を捨て置いた私達に他なりません。

映画に負わせるのではなく、また他のメディアに負わせるのでもなく、観客である私達自身が、与えられた「真実」を蔑ろにした責を負わされているのが、今の状況なのだと思います。

Posted by: | March 23, 2008 11:21 AM

たとえば、メディアなどというものがもしなく、自分の見える範囲の世界だけの中と情報に生きていられるならば、人はもっとシンプルに幸せに生きて死んでいけるのだろうと思います。

知ることは出来る、そして自分がそれを知りながらディナーに戻れるぐらい無関心だったり、無力だったりすることもわかってしまう不幸。

なのに毎日毎日、情報は流し込まれるのは誰もとめることが出来ない。

誰かに何かを伝えられれば、心が動かされる。
鈍感にはなりきれない。
でも、何か出来るような人間でもない。
その間の空白を自覚してしまうのが、映画を見た後だったりします。

Posted by: ミノ | March 23, 2008 05:13 PM

なんか、的外れないいがかりをつけていたようですね。申し訳ありません。
それとolddogさんの真意は了解いたしました。
私も常々突当たる問題だったので、無視出来ずついお門違いなコメントをつけてしまいました。m(_ _)m

Posted by: シューテツ | March 24, 2008 03:04 AM

>ミノさん

ご無沙汰しております。
映画の効能が何かを「思い知らせる」事にあるのなら、思い知らされた自分と向き合う事が観客としての誠実な態度なのだと私は思っています。
無力を知り無力に安住する自分を厭うだけでなく、無力な自分に出来得る事を模索し続けなければ、いずれ映画に接する事に微妙な後ろめたさを伴う羽目になるでしょう。観客には観客の立場で果たすべき何物かがある筈だと常々私は思っていますが、今回取り上げた件はそうした"観客としての責任"をかなり強烈に意識させるものだったのでした。

>シューテツさん

日常的に、映画を含む様々な表現に接している人程、今回私が取り上げた様な感慨は頻繁に想起されるのでしょうね。偶々私は「以前接した映画と最新の事件」をリンクさせませたが、同様のリンクは様々な悲劇と過去の様々な表現媒体を無数に繋ぐことでしょう。

過去に様々な問題定義をしてくれた映画達は、無力を自覚しながらそこから一歩を踏み出そうとした作品達でもありました。それらを蔑ろにすることなく掬い上げる事も、確かに観客である私達にできる事のひとつではあります。
救い上げられた様々なメッセージが、それを目にする人々の意識を、少しずつでも"より良き"方向に突き動かして行くのを期待するしか無いのでしょう。歯痒い事ではありますが。

Posted by: olddog | March 24, 2008 07:33 AM

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