『スピードレーサー』
タツノコプロの(絵柄だけでなく)作風を忠実すぎる程に忠実に再現した『スピードレーサー』は、同時にまた実にウォシャウスキー兄弟らしい映画でもありました。
レースの爽快感と適度な勧善懲悪を主軸に物語を進め、アクション娯楽映画らしくクライマックスの昂揚をそのままに映画を終らせながら、兄弟はまたしても娯楽映画の枠組みからの逸脱を企みます。
具体的にはそれは、映画の主題となる「カーレース」そのものの否定、という形で表れます。レースに捧げられた技量や技術や信念の全てが、実は企業の営利の為にしつらえられたものだったという劇中の宣言は、要するに『マトリックス・リローデッド』の再現であり、浅薄な昂揚や熱狂がどれほど操られやすいかの再確認。
通常なら映画の芯となるべき思想がフェイクである、という大前提を突きつけられた上で、レーサー一家と観客は尚レースへの参加を強いられるという構造が『スピードレーサー』の根底にはあるのでした。
営利活動の権化としてのオートレースと、そこからの逸脱、という意味では、既にJ.ラセター監督の『カーズ』がより深刻かつ感動的に描き切った後ですが、更にその先に既存のシステムを否定し破壊する"革命"まで用意してしまうのがウォシャウスキー兄弟らしい所。単に一台の車が一着になるというただそれだけの事で、オートレースという「世界」を成り立たせていた力関係を根こそぎひっくり返してしまう爽快感が本作には用意されています。
何の含みも理屈も長々しい口舌も用意せず、ただ一台の車がゴールインする様子を見せるだけで、「世界の何かが決定的に変わった」事を観衆と観客を理解させてしまう。これは今までのウォシャウスキー兄弟の映画では決して起こらなかった事であり、ようやく彼等は「映画というフィールドで思想を語る方法」を手に入れたのかもしれない、と思いました。
その様に考えると、『スピードレーサー』は単発の娯楽映画でも単なる(最近よくある)安直な"マンガの焼き直し"でもなく、『マトリックス』3部作から『V フォー ヴェンデッタ』を経て「革命」について描き続ける、ウォシャウスキー兄弟とルイス・マクティーグによるコラボレーションの、最新の一本と捉える方が自然なのでしょう。
カンフー映画やグラフィック・ノベルやジャパニメーションの衣を借りながら、常に彼等はそれらの作品の根底に同じメッセージを忍ばせています。
曰く、「世界が歪んでいる事を認識した以上、その歪みを正す行為は、以下に反社会的でも、またいかに馬鹿馬鹿しく移ろうとも、それは無条件に正しい」。
馬鹿馬鹿しさのレベルでは究極といってもいい『スピードレーサー』においてそう言い放った後、彼等三人がどこに向かう事になるのかが楽しみです。
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