『インクレディブル・ハルク』
NYの路上でE.ノートンとT.ロスが対峙する物語、と聞けばまたNYインディ系犯罪映画の新作かと思ってしまいますが、これがハリウッド資本の大作アメコミ映画なのだからおかしな時代になったものです。
尤も、E.ノートンと言えば映画デビュー作『真実の行方』以来、多重人格に振り回されたり振り回したりはお手の物。メジャー系ビッグバジェットの冠を外して素直に考えれば、制御不能な力に翻弄される青年の役柄というのはごく順当なチョイスだったのかもしれません。
実際、本作『インクレディブル・ハルク』でのノートンの貢献度は相当なもの。彼の持ち味(の一部)である、周囲の同情と共感を呼ぶ気弱な好青年と、キレると何をするか分からない、底の見えない雰囲気を適所で使い分けて説得力を補強します。
変身後のハルクがいかにもアメリカン・コミックの怪物然とした挙動で駆け回り、ともすればリアリティの欠如を観客に意識させてしまう事を考えると、変身前のブルース・バナーを"作り込んだ"ノートンの功績はとても大きいと考えて良いでしょう。
勢いと小気味良さのみで『トランスポーター』を成立させてしまったルイ・レテリエ監督は、今回E.ノートンやT.ロスの持つ"生身のリアリティ"と、アメコミの指向する"ケレン味と爽快感"のバランス取りに腐心した印象。
彼らしいというべきか、本作の中でもっともスリリングで迫力のあるアクションシーンは、ブラジルの貧民街を縦横に使用した"CGキャラクターの全く出て来ない"追跡シークェンスだったりするのですが、その場面の最期の最期に登場するCGキャラクター"ハルク"登場を契機として、普通のドラマをファンタジーの領域にするりと移動させてしまう手際が見事です。
映画の中では普通「その映画が要求するリアリティのレベル」は一定のものですが、本作の様に途中でレベルの遷移を行い、しかもそれを観客に意識させずに成立させてしまう例は珍しい。
レテリエ監督の観客誘導の手腕と情報を過不足無く配置した脚本(実質ノートンが一人で書き上げてしまったそうですが)によって、『インクレディブル・ハルク』はアメコミ映画にありがちな「事前の観客側の納得事項」が極端に少ない、アメコミ原作という意識を外して観る事の出来るファンタジー映画として完成しています。
どうやら原作を擁するマーベル社は、ハルクやアイアンマンやスパイダーマン等々を一遍に登場させる一大プロジェクト"Avengers"を本気で映画化する気の様で、本作の最期にもその前振りらしき一場面が挿入されています。製作費度外視の壮大な構想は結構な事ですが、その所為で例えば本作のストーリーラインが制限されたりしていなければ良いのだけれど、と要らぬ心配もしてしまいます。それ程本作『インクレディブル・ハルク』は"一本の映画として"楽しめる快作に仕上がっていました。
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